2007年(平成19年)2月20号

No.351

銀座一丁目新聞

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安全地帯(170)

信濃 太郎

地も海もどれほどの人々の血を吸ったことか

 題名は「黒いプカプカ」(飛田八郎著・藍書房)である。主人公、日向宏一郎の思いが込められている。同時の心の葛藤も描かれる。太平洋戦争が終わったときは国民学校2年生、7歳であった。父、日向健次は新聞記者で地方部長を務めた。主計中尉で出征、昭和19年7月9日中国湖南戦線の病院で勤務中、B25機の空爆を受け戦死する。残された母、妹の3人の戦中、戦後の苦闘が始まる。国民学校に入校して間もなく学校近くを流れている小川で黒犬の死体が上がった。犬好きの主人公はそれを「黒いプカプカ」と名付ける。新聞記事によると、イヌの毛皮を飛行服にするため昭和19年12月15日、軍需省と厚生省が蓄犬献納運動を推進する通達を出したとある。多くの家庭がその前にイヌを処分した。ある人は言う。「生き物はいつか死ぬものだ。人はいつか死ぬ。あのイヌと同じになる」「戦死した人たちはこの国を守神として祀られ、いつまでも生きてこの国を守り続けることになる」日向少年は考える。戦地へ行かない母や妹は「黒いプカプカ」になるのか。新聞社の人に「戦死した父のカタキをとらなくちゃ」といわれたカタキとは誰のことかなどと疑問を持つ。
 父の戦死後、大阪の近郊の村から北関東の市に移る(昭和19年12月)。ここで焼夷弾による激しい空襲に遭う。そのときの模様。「そんなとき人々はどうしたのか?私は鮮明に思い出す。だれもが動かなくなったのである。不思議なほどぴたっと動きを止めた。映画のコマが止まった感じで、口を利く人はいない。静寂、凍りつくような静寂ばかり」。90余機が攻撃、死者は市街地と周辺地域を含めて700余人、市街地の大半が焼失した。ここで焼死体をみる。敗戦直後焼け残った銭湯で牛の泣き声を「空襲警報」と間違えみんなで大笑いをする。主人公は銭湯の笑い声こそ戦争終結宣言であった。実感がこもる。倒れた馬が殺されるのを見ても上級生のりっちゃんが赤痢で死んでも主人公は「黒いプカプカ」ではないかと疑う。同級生の一人も垂れ下がっていた電線に感電死する。さらに各所を墨で塗りつぶした教科書、先生の言うことがころころ変わる。山に籠もって最後まで戦うといったのが急に敵と仲良くしようと態度を変えた。当てになる物がなくなったことに不安を感じる。戦死した大尉の遺族宅ということで今度は石を投げつけられガラスを割られる。日向少年が受けた心の傷は深刻であった。
 母カヨは95歳で死んだ。極貧の家庭で小学校は4年までしか行かなかった。女工をし、洋裁を習い文字は新聞で覚えた。父がガンで死んだあと3人の妹と一人の弟が残される。大正15年、18歳の時上京、神田のカフェ―の女給となって稼ぐ。月々に40円を実家に送った。上京の際、上野駅で神田までの道を教えてくれたのが日向健次であった。晩年不眠で悩まされ強い睡眠薬を服用した。しばしば幻想の世界に迷い込む。「山椒大夫」の歌もくちずさむ。最後の歌詞が「女の一生」からの「人が思うほど善くもなし悪くもなし」であった。この諦観が「焼け野原に一人」放り出された戦後の世の中で二人の子供を抱えて生きぬけたのであろう。
 父、日向健次は5高、東大法学部に進んだエリートである。「第19世紀に於ける法律哲学に就いて」という卒業論文の書き出しが「百合の花が咲く」であったというのには驚く。文学的素養が豊であっただけでなく発想がユニークである。少中学校時代から作文が抜群にうまかった。昭和2年春、新聞社に入り新聞記者になるのは当然の成り行きであろう。その年7月24日芥川竜之介の自殺に出会う。私淑していただけに衝撃は大きかった。「ただわれわれは物静かに人生を超越した一鬼才を涙とともに見送れば足りる」と健次が書き残した竜之介は36歳の若さであった。社会部で歳末風景をゴム製の長靴の事を中心にして書く。この種記事を苦手とした私など羨ましい程の文才である。この頃の新聞社の事業は面白い。「動物富士登山競争」でロバ、ウシ、ヤギ、ブタを登山させ同行記者が報告記を書かせる趣向は記者たちの腕比べにもなる。健次はブタを担当、名文を書いている。その後社会部副部長、千葉支局長、静岡市局長、応召、地方部長(大阪本社・昭和18年1月から)となる。父が戦争をどう考えていたのか、戦時の新聞記者というものをどう考えたいたかを残された父の書き物から追及する。2枚の紙切れを見つける。第二次大戦の行方について「北アフリカでの(枢軸側の)崩壊は日本に重大な影響を及ぼし、我々の心理にも作用する」と記す。さらに「トルコの去就が注目されるが、アンカラ放送は反枢軸放送を行い『イタリアが先ず敗退、次に日本が敗れる』とまで極言した」と記す。また英文の書物が多くあった。「SYMPOSIUM ON JAPAN”S UNDECLARED WAR IN SHANGHAI」には父が書き送らなかった戦争の現実が詰まったいるとし、この書物から父は考える事が多かったと判断する。
戦争中新聞は当局の言いなりであったといわれる。そうではなかった反証として昭和20年3月10日の東京大空襲の新聞の第二面の記事を紹介する。記事の中には検閲をくぐって滲み出る現実がかかれている。社報にも「新聞人の新聞を作る」といい、「誠実に自由奔放に仕事をやっていただきたい」と健次は書き、戦争下でも「自由奔放」を説いた。その父は昭和18年ごろ「戦争が終わったら新聞記者は死刑だ」という言葉を口にしている。戦争に加担したという意識があるからであろうか。戦死する2年前に記者時代の一切の原稿を処分した。
 著者は最後に書く。「20世紀は世界でどれほどの気の毒な人々をつくりだしてしまったことか。地も海もどれほどの人々の血をすったことか。地に海にどれほどの人々の無念の思いが染み込んだことか」 地上で紛争の解決の手段としてなお殺略が続くなら、地下の人々に「やすらかな眠り」などありうるはずもないという。トルストイは20世紀初頭にいった。「戦争は、人々がいかなる暴力行為にも参加せず、そのために被るであろう迫害を耐え忍ぶ覚悟をした時に、初めてやむ。それが戦争絶滅の唯一の方法である」その覚悟ありやと問われても私は自信がない。

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