先輩の仁藤正俊さんが亡くなった(9月14日・享年92歳)。お通夜、告別式は無宗教形式で祭壇に献花を捧げるだけであった。通夜(9月18日・東京荒川区町屋斎場)では平野勇夫さん(元毎日新聞取締役・編集主幹)が「お別れの言葉」を述べた。平野さんは東京オリンピックの開会式当日の夕刊一面でその模様を格調高く謳い上げた記者である。1964年10月10日開かれた第18回東京五輪大会を語らずして仁藤さんを語ることは出来ない。私はゴルフを一緒にプレーするなかで幾度となく東京オリンッピクの苦労話を聞かされた。人事についての生臭い話もあった。オリンッピク開催に大変な情熱を注ぎ、事業として大会標語を一般募集し、65万通の中から選ばれた標語が「世界は一つ、東京オリンッピク」であった。1年前から世界中に記者を派遣して大型連載企画「東京は招く」を紙面化するのに努力された。まさに「アイデアとネットワークにもの言わせて大輪の花を咲かせた」(式場で配布された仁藤さん横顔より)。私は仁藤さんとは仕事よりは毎日を辞められたあとのゴルフの付き合いのほうが多い。7代目社長になられた高真五郎さんが東京オリンッピク誘致の功労者であり、昭和14年4月、毎日新聞入社の際、高石さんが保証人でもあった。その縁で「高石杯・ゴルフ会」の会長を勤め、年二回ゴルフ会を必ず開かれた。そこで高石さんが柳生真影流の極意「1、目 1、足 1、胆 1、力」を拳拳服膺されたのを知った。それ以来、私はこの極意をひそかに呟きながらゴルフをするようになった。ゴルフのスコアはともかく、人生の極意でもある。仁藤さんのおかげである。
昨年11月25日開かれた東京社会部旧友会には欠席されたが、その近況を「この12月10日に満93歳(実際は92歳)になります。すし屋横丁の相棒、杉浦(克己・社会部長・サンデー毎日編集長))、戸川(幸夫・作家)、加藤(正雄)の面々はすでに亡く残念の至り。長生きは淋しいものですね」と綴っておられた。80歳を超える先輩は少なくなった。
弔辞で平野さんは最後に「仁藤さんは我が人生に悔いなしと思い逝かれたと忖度しますが仁藤さんを支えたのは気丈な奥さんの貴子さんでした」と夫人貴子さんを激賞した。仁藤さんが水戸・静岡両支局長時代、独身の支局員達は朝、昼、晩と夫人の手料理をいただき、何くれと面倒を掛けたという。70歳を超えた元支局員たちが姿を見せ式場の世話を焼いた。談論風発、毎日を愛した、いささか破天荒な新聞人、仁藤正俊、今やなし。その「仁藤ぶし」を聞けなくなったのは淋しい限りである。
(柳 路夫) |