2006年(平成18年)8月1日号

No.331

銀座一丁目新聞

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茶説

「私の心だ」の真意は・・・

牧念人 悠々

 ひとつのことに百人がそれぞれ違った意見なり感想を持つ。事実認識でも異なる。それを如実に示したのが元宮内庁長官、富田朝彦さんの昭和天皇の「メモ」に対する反応である。重複を恐れず原文を示す。「私は、或る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白取までもが。筑波は慎重に対処してくれたが、松平の子の今の宮司がどう考えのか、易々と松平は平和に強い考があったと思うのに、親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」これが昭和天皇のお言葉とすればそのお気持ちは良くわかる。一説にはそのメモに書かれた表現から故徳川義寛侍従長の発言を写したものではないかと見る向きもある。私は東京裁判で法務死された被告14人が合祀されていても今まで通り月1回の参拝を欠かさないつもりである。もちろん8月15日にも参拝する。先輩、同期生(12人)が祀られているからだ。「親の心子知らず」と名指しで言われた松平久芳元宮司は明治維新の英傑松平春嶽の孫で、戦時中は海軍軍人であり、戦後は陸上自衛隊に勤務した。昭和53年7月、これまで32年間宮司を勤められた筑波勝麿さんの後をついで6代目の宮司に就任した。「総ての日本が悪いという東京裁判史観を否定しない限り日本の精神復興が出来ない」という考えの持ち主である。A級被告合祀の懸案が総代会の議決に拘わらず宮司預かりになっているのを知って石田和外元最高裁長官とも相談の上、自ら結論を出して合祀に必要な手続きを勘案し昭和53年10月新たな祭神として合祀した(小堀桂一郎著「靖国神社と日本人」PHP新書)。私は松平宮司の意見に全面的に賛成だ。昭和天皇が「親の心子知らず」とおっしゃったのは「しょうがない奴だなあ」という嘆きと受け取る。「愚痴だ」と取る友人もいる。ところが立場、見方が変わると「昭和天皇の怒りだ」という人もいる。作家の保坂正康さんである。毎日新聞(7月28日)で次のように言う。「松平氏は戦犯合祀について宮司職を離れたある講演で日本の戦争状態は1952年4月28日までのアメリカを中心とする連合国の占領下でも続いていたと自身の歴史観を披露した。したがってこの間のA級戦犯の死者(絞首刑の7人以外の7人)も戦死扱いだというのだ。東京裁判は戦時下のの不当な軍事裁判ということになる。この歪んだ戦争観に、昭和天皇が怒りを持っていたこがわかる」「歪んだ戦争観」というが平和条約が発効する昭和27年4月28日まで占領下であったことは事実である。みんなが忘れているに過ぎない。日本は軍事占領されていたのだ。また東京裁判が国際法上から見て勝者が敗者を裁いた復讐劇であり茶番劇であったことはいまや世界の常識ではないか。明らかに不当な裁判である。昭和天皇が怒っているというが保坂さん自身が怒っているだけではないか。保坂さんの間違いを指摘すれば絞首刑の7人を含めた14人が戦死扱いの「法務死」となっている。合祀という手続きも松平宮司独断で決めたというものではない。合祀される方々のお名前を記した「上奏簿」が宮中に届けられている。合祀は例大祭の前に行われ、合祀後の例大祭には必ず勅使がこられる。昭和50年11月のご参拝以後ご親拝は途絶えているが勅使派遣は続いている。
富田メモは日経新聞の特ダネで報じられ各紙が後追いしたわけだが、日経にリークしたのは宮内庁のさる高官で、ある宗教団体に所属し、上の指示に従ったものだという。天皇のお言葉を政治的に利用使用とした節が見られる。天皇の私的発言を政治的に利用するのは厳に慎まねばならない。このリークは後を引くかもしれない。自民総裁選挙、分祀論の促進、首相の靖国参拝の中止を求めた政治的なたくらみから発しているからだ。

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