2006年(平成18年)8月1日号

No.331

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花ある風景(245)

並木 徹

「『紙の碑』を読む」

  さる日のブログにこう書いた。『寺井谷子さんの近著「紙の碑」(飯塚書房)を読む。私としては驚きの連続であった。5・7・5の世界の奥深さは絶望に近い。先人の俳句の凄さを今更のように知る。「秋灯かくも短き詩を愛し」谷子』(7月19日)。
寺井谷子さんの俳句の原風景は父横山白虹の「頼信紙書きすてヽ出る夜の吹降り」であり、高柳重信の「身をそらす虹の絶顛処刑台」である。6歳の谷子さんはこの句に息をのむ思いをしたという。私は高柳の句を谷子さんの10歳の長男と同じく『昭和詩歌俳句史』―別冊1億人野昭和史ーで知った。この本は昭和53年4月に出版されている。私が52歳の時である。このとき私は「船焼き捨てし船長は泳ぐかな」に引かれた。
竹下しづの女の句が「瞬時の叫び」の中で紹介されている。大正9年「ホトトギス」8月号の雑詠巻頭を飾った7句の中の一句「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)」この句はアサヒグラフ増刊「女流俳句の世界」(朝日新聞・昭和61年7月1日)に出ており始めて目にした。この句の前のページにあった中島秀子の「乳房わたすも命渡さず鵙高音」とともに感動した。谷子さんの本でしづの女が学校の先生で2男2女の母親であるのを知った。
 私が好きな「愚直」を宇多喜代子はしばしば口にするという。その人の「魂も乳房の秋は腕の中」。私の想像を絶する句である。何時この境地に達するのか。大石雄鬼の「像の頭に小石の詰まる天の川」に至っては呆然と立ち尽くすのみである。『絶望』感を抱くのも無理はあるまい。「別離」にはジーンときた。横山白虹がなくなったのは昭和58年11月18日午前10時20分、84歳であった。私は1週間ほど前にお見舞いに行った。この時は元気で十分は話すことも出来た。私より26歳も年上の先人が偉い俳人とは知っていたが、その頃は俳句を作ろうという気が全くなかった。毎日新聞の経営が悪かった。儲けることしか頭にない無粋な男であった。谷子さんは名文家である。「泣かぬまま、涙を胸底に閉じ込めたまま、この歳月を歩いてきてくれたのだ」と『自鳴鐘』の主宰を継承した母房子を描写する。
 詩人安西冬衛の第一詩集「軍艦茉莉」に俳人として一番最初に賛同の手紙を出した白虹、白虹の妹の伴侶、井手無一の『夜鳴る太鼓』の一連の句、特攻隊員、林市造の沖縄で特攻戦死する3日前の作品「蛙なく田のあぜ道や夜静か」など「紙の碑」は幾度となく読み、折をみて手にして熟読玩味しなければと強く思う。

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