安全地帯(151)
−信濃 太郎−
ピカソの再来・・・
職場が違うが毎日新聞の先輩に林秀一さんという画家がいる。定年後退職金で海外へ20回近くスケッチ旅行に出かけた。はじめのうちは100万円もかけたこともあるという。よくグループ展や個展を開く。国分寺の南口の画廊「次男」で開いた「小品自薦作品展」(45点)を見た(7月16日)。海外での作品が多い。「紅葉マッターホルン」「河畔(オーストリヤの山)」「教会の塔(マルセィユーの港)」など15点ほどあった。私は「教会の塔」が気に入った。南仏の「丘の教会」も良かった。柔らかいタッチで教会の塔が凛として描かれていた。会場は私のほか林さんの絵描き友達が一人いるだけであった。横浜高等工業出身で戦時中は航空機関係の仕事につき戦争には行かなかった。戦後直ぐに毎日新聞の印刷局技術部に入社。もともと絵を書く事が好きで画家を目指したが戦争中のため断念せざるをえなかった。現役の時も絵画部を作り同好の志と絵を書き秋には社内展覧会を開いたほどであった。社会部で事件に明け暮れした私のはそんな余裕など無かった。今思えば羨ましい限りである。雑談をしているうち林さんの誕生日がピカソが死んだ同じ4月8日の生まれだと知った。ピカソは1973年、91歳で死んでいる。林さんは名古屋本社の印刷部長であった。年齢は49歳であった。「おれはピカソの生まれ代わりだ」とひそかに思った。ピカソは多情多恨である。その女性遍歴は有名である。澤地久枝さんはピカソのことを次のように書く。「その長い創作年数とあいまって、二十世紀屈指の大画家なのかもしれない。天才とはこの人のことかと思う作品と、子供のいたずら以下の(しかも壮大な)オブジェなどもあり、パリのピカソの美術館を一日中歩いて私は混乱した」林さんはピカソほど難解ではない。この日も会場に姿を見せ、何かと後片付けをされていた夫人一筋の石部金吉である。絵は水準以上である。彼の気持ちは良くわかる。私の誕生日は大正天皇と同じであり、日露戦争の際、遼陽会戦で橘周太中佐が戦死された日と同じである。軍歌「橘中佐」にも歌われている。「周太が嘗て奉仕せし/儲けの君の畏くも/生まれ給いし佳きこの日/逆襲受けて遺憾にも/将卒、数多失いし/罪は いかでかのがるべき」(4番)誕生日が同じというので人は誇りとし、励みとし、自分を律するのである。林秀さんにこれからもエールを送る。 |