安全地帯(146)
−信濃 太郎−
櫻には君の散華を憶ふかな
毎日新聞社会部の察回り記者時代からの友人、高橋久勝君が句集以前「空征きて」を出した(平成18年6月)。この中に昭和17年4月、国学院大学予科入学の同期生の文集「まほろば通信」(21号)に納められた彼の一文「四月十八日という日」がある。昭和17年と昭和18年の二つ四月十八日の出来事を書く。
「四月十八日という日は六十年前(執筆平成14年)、日本が始めて米軍の空襲を受けた日である。空母「ホーネット」から発艦した陸軍爆撃機ノースアメリカンB25十六機は、横須賀、川崎、東京、名古屋、神戸などを銃爆撃して、通り魔のように、中国大陸などへ飛び去ったのである」記録によれば、川崎で子供が機銃掃射で死亡、焼夷弾には「ホーネットからトージョウーとヒロヒトへ」と書かれていた。
このとき、高橋君は渋谷駅で空襲に遭う。機関砲の音を聞き、見慣れぬ飛行機が二、三百メートルの低空で眼前を横切るという体験をする。
私は大連二中の五年生で、8月末に行われる陸士の受験勉強に忙しかった。七人兄弟だが、上の兄四人とも職業軍人である父の跡を継ぐ意志がないので一人ぐらい軍人になってもよいであろうと考えた。
「それから丁度一年後の昭和十八年四月十八日.連合艦隊司令長官・山本五十六大将は、乗機を、双発双胴の戦闘機P38に襲われ、撃墜され戦死してしまった。はるかソロモンの空であった。軍機でもあり知る由もなかった」(正式発表は5月22日)
高橋君は六月五日に国葬で行われた山本五十六大将の葬列を学友と共に代々木上原まで出向き見送っている。「戦わねば・・・」具体性は無かったが、そう決意を新たにしたことだけは確かだと記す。
私はこの年の四月、陸軍予科士官学校に入学、埼玉県朝霞にあった。まだ軍服も体に合ず、「貴様」「俺」「デアリマス」の軍隊用語も身につかないころであった。同期生の日記によると、四月十八日は日曜日で快晴。三種混合の接種が行われたとある。
高橋君の文章は続く。「忘れることの出来ない、この二つの四月十八日。
『ペンをおいてでも戦場に赴く時ではないか』
『いや、学即戦場だ』
『とにかく、予科でひとくぎりして、戦っていのちあらばの学部だ』」
友人4人と出した結論は海軍予備学生として出陣することであった。昭和18年9月13日四人は土浦、三重の両海軍航空隊へ分かれて入隊、第13期予備学生として3人は偵察将校、高橋君は艦爆操縦の道を進んだ。2人の友人は戦死、他の一人は胸を患って復員後まもなく死んだ。
「九九艦爆、彗星、銀河と操縦して戦い、一番先に戦死と思われた私一人が残されて。はや五十五年。三人の魂を常に自からの心に宿して生きてきたつもりである」この気持ちはよくわかる。その年の9月13日といえば私達59期生が同期生会発会式を行った日である。朝午前2時40分に起床して風呂場で水ををかぶり心身を清め午前4時からの式に臨んだ。そこで『我等同期生は死生相結ぶ心友ナリ 骨肉の情誼を致詩、苦楽を共にし、切磋琢磨、誓って 皇軍団結の楔子たらん』と誓い合った。航空ヘ進んだ同期生のうち操縦は昭和20年3月末、満州に渡り、分散しで操縦の訓練中敗戦となり、日本へ帰国の途次、ソ連機の銃撃で戦死したり、シベリヤで抑留中に死んだりして12名が靖国神社に祭られている。
櫻には君の散華を憶ふかな
靖国の枝に咲かうと別れきし
わが骨は戦友ある海へ花のころ
高橋君の句は戦友を思う心がしみじみと出ている。熱き思いがある。海と陸の違いがあっても戦後を「余生」と想って人生をひたすら生き抜いて来た私達である。高橋君の気持ちは十分すぎるほど理解できる。句集以前にしろ句集にしろ人の心を打つものがあれば「良い俳句」というのである。 |