2006年(平成18年)6月10日号

No.326

銀座一丁目新聞

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花ある風景(240)

並木 徹

江ノ電沿線の史跡めぐりに興ず

  友人34人(うち婦人4人)と江ノ電沿線の史跡めぐりを楽しんだ(5月31日)。まず稲村ヶ崎へ。海岸に大きな石碑が立つ。「投げ入れし剣の光あらはれて千尋のくがとなりにけり」と明治天皇の御製がある。時代は14世紀、後醍醐天皇が親政の実を挙げんようとして幕府と対立、元弘元年(1331年)「元弘の変」が起こり、翌年、天皇は壱岐の島へ配流となるが、護良親王らの再挙兵、諸国で反幕勢力の蜂起が相次ぐ。新田義貞は上野国新田荘(新田町。大田市)で挙兵、小手指、久米川、分倍河原で北条軍を破り、鎌倉の三方の切通し口から鎌倉に迫った。義貞は元弘3年5月22日の早朝、稲村ヶ崎より鎌倉に突入する。「太平記」には「まだ夜が明けやらぬ時刻、義貞は兵を率いて稲村ヶ崎の岩頭に立った。竜神に祈って、宝剣を海中に投じたのである。奇跡が起こった。にわかに海が二十余町も干上がって、横矢を射ようと構えていた幕府の軍船ははるかかなたに遠去かった」と記されている。「梅松論」にはただ干潟を通ったとのみ記す。要害鎌倉の盲点を突いた稲村ヶ崎攻めは幕府滅亡の端緒となった。「七里ヶ浜のいそ伝い/稲村ヶ崎名将の/剣投ぜし古戦場」(作者不詳・明治43年7月に尋常小学読本唱歌として発表された))と歌ったのは何時の日か。小学校は赤い夕日の満州で過ごした。
 海岸には「ボート遭難慰霊像」もある。友人鈴木七郎君は逗子開成中学校出身である。この日は世話役として私たちの面倒を見てくれた。明治43年1月23日午後2時ごろ逗子開成中学分校生12名と小学生1名のっていたボートが転覆して全員が遭難した。生徒達は規定を破って無断で葉山の艇庫からボートを引き出した。たまたま漁船が一人の死体を発見したことから大騒ぎとなった。駆逐艦2隻、水雷艇7隻まで出動したと記録にある。この頃の子供のいたずらはでかい。「真白き冨士の根、緑の江ノ島/仰ぎ見るも、今は涙/帰らぬ十二の雄雄しきみ霊に/捧げまつる、胸と心」(作者・鎌倉高女教諭、三角錫子・曲はガートンの「昔の我が宿変わらぬ故郷」軍歌集「雄叫」による)と歌まで歌われた。当時中学から大学までボートは盛んであった。
 稲村ヶ崎駅近くの町並みに「11人塚」がある。手を合わせる。新田一族の武将、大館宗氏ら11人を弔う塚である。鎌倉攻めの先人を務めたが、後続の兵をたたれて包囲殲滅されたとある。1660年も前の出来事である。往時漠々、訪うものは我々のみ。江ノ電で三つ目の駅「腰越」で下車、満福寺へ。運悪く葬儀と重なって暫く待たされる。義経が腰越状を書いたところとして有名。真偽の程は判らないが弁慶の腰掛石もある。この寺は観光地なれしていてあまり感じがよくなかった。古義真言宗の古寺だというのに惜しい。江ノ島駅近くの日本料理「松川賓館」で昼食を取る。座席の傍にいた参議院事務総長、国会図書館長を勤めた指宿清秀君から昭和天皇の秘話を、精神科医の河部康男君から精神医学の話などを聞いて耳学問をした。午後から元の使者、杜世忠ら5人の墓がある常立寺へ。建治元年(1275年)杜世忠は元の使者として修好を求めに来たが、北条時宗は使者達のくびを刎ねた。これには訳がある。二年前の文永10年蒙古から使者がきた時に今度、使者を遣わすような事があれば一人も生かしては返さないと申し渡しておいた。滝の口の海岸で処刑されたのは次の5人であった。
杜世忠(34歳・蒙古人)、何文著(38歳・唐人)、回々都魯丁(32歳・イスラム人)、薫畏国人果(32歳)、徐賛(32歳・高麗国人)
 杜世忠の辞世の詩は「門を出でて妻子、寒衣を贈る。我に問う。西行して幾日にて帰る。来る時かりそめにも黄金の印を拝し蘇蓁を見て機に下らざること莫かれ」己を中国の戦国時代の縦横家、蘇蓁にみたてて覚悟を決めていたようである。使者か蒙古人だけでなかったのを初めて知った。
龍口寺に参る。茲は滝の口刑場の跡。日蓮がここで首を打ち落とされようとしたとき雷鳴がとどろき刃が折れ、そこへ時宗の赦免が届き奇跡的に助かった。弟子の日尊が寺を建てたのは慶長6年(1601年)というからすでに405年もたっている。私はかの小学唱歌を口ずさむ。「歴史は流し 七百年/興亡すべて 夢に似て/英雄墓は こけむしぬ」・・・

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