2006年(平成18年)2月20日号

No.315

銀座一丁目新聞

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追悼録(230)

「中野好夫さんの忘れがたきこと」

  毎日新聞は1977年(昭和52年)1月1日から新聞の日付けをこれまでの「元号主・西暦従」から現在の「西暦主・元号従」に改めた。この提唱者が今は亡き評論家の中野好夫さんである。誰もこのことを忘れているであろう。私が社会部長のとき(1976年3月)、新聞批判の試みとして「新聞を読んで」の欄を新設した。その第一号に中野好夫さんに書いていただいた。その中で「西暦主・元号従」を提唱された。その意見を頂いて早速実行に移したわけである。
 中野さんは一時新聞記者を志望されただけに新聞批判は辛らつであった。府中で起きた「3億円事件」(1968年12月10日)の新聞報道を批判した。「このところ、もう1ヵ月以上も、この国のマスコミは3億円事件ブームである。あと何日、あと何日の秒読みで、これはどうも東京オリンッピク、万国博以来の血道の上げ方といってよい。真犯人があがったというならわかるがそうでもないのに、どこにそんなニュース価値があるのか。マスコミ人の見解が聞きたい」(1975年11月17日毎日新聞夕刊)時効まであと60日をきったころで、日野市や八王子市であらたな目撃者が出たためで、新聞は連日大騒ぎした。私に中野さんを紹介してくれた内藤国夫君(故人)が警視庁クラブのキャップであった。中野さんが自分に苦言を呈されたものだと思った内藤君は早速捜査一課担当の事件記者を引き連れて中野邸におも向き、きれいごと、タテマエだけではすまない現場記者の悩みを訴えた。私に言わせれば、新聞の馬鹿騒ぎは、読者に関心を呼び起こさせ、犯人逮捕のきっかけを捜査陣に与えさせるためである。必要悪といっていい。新聞にはそのような機能もある。この事件は7年の時効が来て未解決となった。中野さんは頑固な正義漢であったと思う。敗戦直後「誰が戦争犯罪人か」の新聞社のアンケートに「中野好夫」と書いたという(2月6日朝日新聞「時の墓碑銘」より)。こんな中野さんが好きである。私が毎日新聞西部本社代表の昭和60年に亡くなられた。享年83歳であった。

(柳 路夫)

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