2006年(平成18年)1月20日号

No.312

銀座一丁目新聞

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茶説

メキシコ歌手たちのオペラ「夕鶴」の日本公演を

牧念人 悠々

 メキシコ在住の黒沼ユリ子さんとは40年来の付き合いである。昨年も来日したさい、コンサートに出かけそのヴァイオリンを堪能した。年賀状には昨年10月グアナフアトで開いた「33回セルパンティーノ国際芸術祭」で日本が受け持った開幕公演、オペラ「夕鶴」が大成功したとその喜びを書いてきた。日墨交流会の会報に書かれたものであるが、感動的であるので重複をいとわずお知らせする。
 黒沼さんは3年前に日本側の純音楽部門のコーディネーター役を任命された。これまでのこの芸術祭に文楽、舞踊、太鼓のグループなどが参加。いずれも日本人だけの出演による公演であった。これでは記憶と記録しか残らないので黒沼さんは日本の代表的オペラ「夕鶴」をメキシコの歌手たちに学んでもらい、芸術祭後メキシコの各地の劇場で上演を継続できたら真の文化交流になると、無謀な考えを思いついた。日本から演出家や所作指導者を招き、大道具、小道具、照明デザイン、衣装などをもすべて日本から運び、しかもそすべてをメキシコに残してもらうというのである。彼女はいう「これが根をつけた花の贈呈方程式」。この「贈呈方程式」を解くのは至難の業である。これまで数々の音楽事業を手がけてきた黒沼さんは問題をとくキーワードを心得ている。それは「音楽好きな大泉首相」であった。昨年9月「自由貿易協定」の調印に来墨した小泉首相に直訴した。小泉さんに口をとんがらして訴える黒沼さんのほほえましい姿が浮かぶ。山崎官房副長官(前)。外務省板場中南米局長などその場に居合わせた人々のバックアップとフォローがあって実現までこぎつけた。
 これからが「聞くも涙、語るも涙」の物語である。4人の歌手がオペラを日本語で歌うのを仲間のメキシコの人たちは誰一人として信じてくれなかったそうである。日本語を覚えるのも大変なのに指揮棒にあわせて一定のテンポの中でメロディー、リズムを刻みながらの日本語を覚えなくてはいけない。誰もが悪戦苦闘の連続であった。夜中に悪夢にうなされて眼を覚ましたり、後ろの車からクラクションを鳴らされて怒鳴られるまで信号が青になったのも気がつかず、紙切れにコピーした歌詞を夢中で暗記したりしていた・・・「まるで早口言葉みたいで、練習中に舌をかみそうになったよ」と大笑いになったのが<惣ど>役のルイス。「バ〜カは、バ〜カなりに昔は大層な働き者じゃたが〜」というメロディーのところで「taisoona hatarakimono」これ全部をたった一拍の中で言わなくてはならない。「働き者」を「腹切リ・猿」(monoはスペイン語で猿)と早合点してしまいそうになり、ゆっくり何度も「ハタラキ・モノ」と繰り返し覚えたという。「贈呈方程式」を解くもう一つのキワードは補助線の引き方である。とんでもないところにひいては公演が台無しになってしまう。黒沼さんの心痛と苦労は見逃せない。全ての歌や台詞の意味をスペイン語に訳して歌手たちに教えた。日本語の発音や抑揚のためには音符の上にアクセントをつけたり、黒沼さんが読んで録音したテープを歌手たちが何百回も聞いたりしながら日本人の日本語と違わないよう訓練した。歌手たちは見事オペラ「夕鶴」を演じた。聴衆のための字幕用に簡略なスペイン語訳も黒沼さんは用意したが「夕鶴』は聴衆を完全に虜にしたようである。ある老婦人はオペラの中に自分自身を入れ込んでしまい、大粒の涙を流す有様であった。
 海外でのオペラ「夕鶴」の外国人による原語初演は日本音楽史上新たな一ページを開いた。快挙である。次回は日本での公演をと願うのは黒沼さんならずとも当然そう思うであろう。あわてものの私は今年の秋、小泉首相引退公演と銘打ってオペラ「夕鶴」を実現したいと思うのだが・・・・

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