1998年(平成10年)6月1日(旬刊)

No.41

銀座一丁目新聞

 

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連載小説

ヒマラヤの虹(12)

峰森友人 作

 百合は、女性のスターディレクターとして日本を代表するテレビ局の大幹部に能力を買われ、予定通りであれば、今ごろニューヨークに駐在して活動を始めているはずだった。その百合がヒマラヤ・トレッキングから帰った直後、辞表を出した。それもバンコクから。一体百合に何が起きたというのだろう。出会ってからトレッキングの終わりまでどこか陰りのあった百合の表情の奥には、やはり何か重大なことが隠されていたのだ。

七月に入って、夏休みの計画でまわりがそわそわし出したある日、慶太が昼食から戻ると、机の上の書類受けの中に他の郵便物に混じって、人目でそれと分かる一通の私信の国際航空便があった。慶太の宛て名が手書きされているだけで、差し出し人名や住所は記されていない。慶太は何気なく封を開いて、数ページに渡る大判の航空用箋の一ページ目を見て、息をのんだ。

   「お元気でいらっしゃいますか」

 形式的な挨拶の言葉はなく、一言で始まるその手紙は、慶太がこの二ヵ月余り待ちに待ったものであった。

 「私からご連絡すると申し上げましたが、今日まで迷いに迷いました。果たしてお手紙を差し上げることが私のためになることなのか、それ以上に佐竹様に意味のあることなのか、いくら考えても明確な答えが見つからなかったからです。お手紙を差し上げるということは、トレッキングにお供させていただけたお礼やご機嫌うかがいに終わらず、今年になって私の身に起きたことすべてをお話しすることになります。さもなければ、そのまま永遠に音信不通となった方が、私にはすっきりさせる方法のように思われました。

 今なお迷いはありますが、お手紙を書くことで、私の心の整理もつくのではないかと思うにいたりました。それに加え、意気地なしの私は、どこかで誰かに見守っていてもらいたいという甘えから抜け出すことが出来ず、一生忘れようのない初めてのヒマラヤの思い出をつくって下さった佐竹様には、なぜか今に至った事情を知っていただきたいという気持ちをぬぐえず、思い切ってペンを取りました。ご迷惑な話しとすれば、どうかお許し下さい。

 カトマンズでお会いした時も、その後も、私は自分のことをほとんどお話しいたしませんでした。心を閉ざしたままの私をそばにして、きっと何度も不愉快な思いをなさったことでしょう。ご無礼を心からお詫び申し上げます。実はこの時の私は、新しく生まれ変わろうと必死にあがいている最中で、とても自分のことを語る余裕がありませんでした。

 今年に入ってまもなく、私にとってはまことに屈辱的なことが起きました。

 この数年私が夜の看板番組のニュースショー担当のディレクターの一人として、ほとんど毎日午前様の生活を続けているうちに、大学で薬学の研究員をしていた夫とその助手との間で子供が出来ることになり、夫と別れることになりました。それだけであれば、家庭のことをほとんどかまえなかった私にも大いに責任のあることであり、やむをえないことと自分を納得させることが出来ました。しかし・・・。今年一月の終わり、アメリカで女性初の副大統領候補になった元下院議員が日本を訪れた際、私がインタビューするようにとチーフ・プロデューサーから言われました。

 インタビューは元下院議員が泊まっている紀尾井町のホテルに部屋を取って行われました。インタビューの内容は、政府・議会での女性の活動に関する日米の比較をめぐるもので、内容豊かなものになり、翌日夜放送されたものもなかなか好評でした。

 ホテルでのインタビューがほぼ終わりかけたころ、ニュースショーを今のような看板番組に成長させた大功労者で、いまも報道部門の大幹部である元キャスターがインタビューをしていたスイートルームに入ってきました。元キャスターはワシントン駐在時代から元下院議員とは知り合いで、挨拶に来たということでした。インタビュー後私も元キャスターも挨拶が終わり、カメラや音声担当のスタッフも片付けが終わった時でした。元キャスターが私に話しがあるというので、スタッフは私を残して先に帰っていきました。

 二人きりになると、元キャスターはこう話し始めました。

 『君もよく知ってるとおり、君のご主人の教室の教授と僕はもう長い付き合いだ。彼が話しがあると言うので、実はおととい久しぶりに飯を食った。すると教授は、大山君の結婚は実はとっくに破綻している。何とか早くかたをつけなくてはならないところを、ついつい彼は先に延ばしてきた。彼は助手をしていた女性との間で子供が出来ることになったので、ここですべてを精算する決心がついたと自分に相談にきた。そこでお互いのために、われわれで気持ちよく決着をつける手伝いをしてやりたい、とこう言うのだ』

 元キャスターは平然と話しました。しかしこれを聞いた私の体の中で、言葉にならない怒りが噴き上がってくるのを覚えました。

 私のような仕事をしていると、いわゆる妻として夫に尽くすということはほとんど出来ません。若い時はよく分かっていた夫も、年をとってくると、だんだん自分の生活に落ち着いたものを求めるようになったのでしょう。私には夫の求めるものを満たすことは出来ない。自分でも分かっているのですが、自分の仕事に追われて、それも男性に伍してやっていこうとすると、とても家庭的になる余裕がありませんでした。特に夜のニュースショー担当になってからはそうでした。夫が安らぎを与えてくれる女性を求めても、不思議はありません。特にジャーナリストと違い、夫の仕事は実験室で長い時間一人闘う仕事です。それが終わってほっとして家に帰っても、食事もなければ、話し相手もいない。もっとも仕事の後の安らぎを求めるのは仕事を持っている女性だって同じなのですが。

 私が夫を知ったのは実は元キャスターと教授を通してでした。元キャスターがニュースショーの花形だった時、大きな薬害問題がありました。かねてから教授と知り合いだった元キャスターは私を教授担当にしたために、私は問題の背景を聞いたり、コメントをもらったりするために毎日のように教授の研究室に通いました。教授が留守の時は、教授が戻るまで若い研究員だった夫が話し相手をしてくれました。口八丁、手八丁の人たちが数知れないマスコミの世界にいる私にとって、物静かな研究員の彼と話していると、安らぎを覚えました。夫も自分と違った世界の生々しい話しやテレビの裏話などに大いに興味をそそられたようです。そのうち(過度に)親切な教授の強い勧めもあって、私たちは結婚しました。

 しかしそれ以来、私は自分のプライバシーだけは他人に触れてもらいたくないと強く願っておりました。それはすべて自分の責任の世界です。だからこそ、仕事で深夜帰りが続いても、泣き言を言わなかったのです。それは女のというか、一人の人間としての意地であり、誇りでありました。ところが女にも男に劣らぬ誇りがあるということを、日本の男性はまだ気付いてくれていないようです。

 国際派の第一人者として鳴らしたはずの元キャスターが言いました。

 「君の私生活に局はもう少し配慮してやるべきだった。僕や部長がもっと気をつかうべきだった」

 私は心の中で叫んでいました。

 『余計なお世話です』

 私は彼の顔を見ていると、とんでもないことを言い出すのを恐れたので、ソファーから離れて、窓際に立ちました。東京の冬って、夕暮れのとっても美しい日があります。その日がちょうどそうでした。私は心を鎮めるために、赤く焼けた南東の空にじっと見入っていました。するといつのまにか元キャスターが私のそばに来て、私の肩を抱き、

 「アメリカに行って出直そう、僕が力になる」

 と言って、強く抱き寄せました。

 「人間誰でも寂しい時やつらい時がある」

 彼はこうも言って顔を寄せてきました。

 私は、

 「すみません、何か誤解なさっておられます」

 と言って、彼の腕を解こうとしましたが、彼は放しませんでした。いつの間にか彼の左手が私のスーツの下のブラウスの合わせ目の中に半分入っていました。私はもう必死で彼を押し退けようとしたところ、彼の手が引っかかっているために、ブラウスのボタンの付け根が引き裂け、ボタンもちぎれて飛びました。その間私は何か苦しそうに叫んでいたようですが、彼は、「大丈夫だ」とか、「僕には君が必要だ」とか、「僕を信頼しなさい」とか言い続けていました。

 私は無残な姿でした。ブラウスが裂け、その下のものさえ見える程です。彼は、

 「君が激しく抵抗するから、こんなことになって」

 と言いました。もし私が抵抗していなかったら、ブラウスは裂けなかったかも知れません。「こんなこと」にはならなかったかも知れませんが、どんなことになっていたのでしょうか。

 私が沈鬱な表情で窓際へ行ったのも、夫と他の女性との間に子供が出来て離婚を希望していると聞いた悲しさのためではありません。私のもっとも大事な『私』の部分を男たち(こんな乱暴な言葉しか使えません)がさらしものにしたために、私は、夫にも、教授にも、元キャスターにも怒っていたのです。なぜ、夫は私に直接別れる話しが出来なかったのでしょう。またそうするように、なぜ社会経験豊かな人たちは夫に教えられなかったのでしょう。

 元キャスターはテレビ界でのその名声と実力から、女性は自分の意のままになるといつのまにか過信するようになったのでしょうか。彼は若い時JTSの人気アナウンサーと結婚しました。しかし彼女が他のテレビ局に高額の契約金で引き抜かれた後しばらくして、彼女とは離婚し、まもなく航空会社でその美と才知で誉れ高かった広報担当と再婚しました。その人とも近く別れるそうだという話しを親しい解説委員から聞いたことがありました。そういう彼の個人的な状況と私の身に降りかかった災難とに関係があるのかどうか、私には分かりません。

 この一件のあと、私は夫との離婚を直ちに決着させました。

 次に私は、元キャスターへの手紙でアメリカ行き人事を進めないよう、きっぱりとことわりました。アメリカ総局で毎日彼と顔を合わせながら仕事が出来ないことは明らかでした。アメリカ行きの人事の話しがあったということを私はカトマンズでのお食事の時に少しお話しいたしました。

 そして私は、三月末新番組スタッフに移行するのを期に、ちょうど勤続十五年になったこともあって二、三ヵ月の休暇を申請しました。それは私の置かれた状況を静かに見極め、心の整理をすると共に、これからの私をどのように作り直せばいいのかを考えてみたかったからです。一ヵ月という条件でこれまでほとんどとったことのない休暇が認められました。

 佐竹様。私はどうかしているのかも知れません。なぜこのような顛末を書いてしまったのでしょうか。佐竹様にはまったく関係のないことですのに。ただネパールでは私はひたすら自分の過去について黙秘を通しましたので、それはこういう事情があったからと、そのお詫びもかねて書いているのかも知れません。でもそれだけでなく、ひょっとすれば最初にも書きましたように、佐竹様に甘えようとする意気地なしの私がそうさせているのかも知れません。

 最後は佐竹様にも少々関係したことを。

 私は雄大なヒマラヤを見、またそのヒマラヤを相手に一生懸命生きている人々を見て、そしてまた毎晩佐竹様の隣の部屋でその日話し合ったことなどを思い返しているうちに、東京で毎日ニュースとして騒いでいたことは何だったのだろうと思い始めました。政治家も官僚も経済人も、いいえマスコミも、醜い問題を自ら作り出しては大騒ぎをし、また新たな問題を作り出しては騒ぐ。豊かな社会は何と壮大な無駄を繰り返しているのだろう?そう考えているうちに私はやはりこれまでの生活を完全に一時休止させなければならないと思いました。東京で、東京のあわただしい時間で、東京の価値観を基に動くのではなく、もっと違った基準の価値もあるはずだと考え始めました。社会の権威を冷たく突き放したような佐竹様の見方が私に一種の衝撃を与えたことは否定出来ません。「『国連はお月様』というロマンチックな言葉に秘められた冷めた真実と組織エリートに対する厳しい目に、私は自分も新しい眼鏡を必要としていることをひしひしと感じました。

 これまでの私はどうだったでしょうか。日本を代表するテレビ局に身を置くことで、無意識のうちにも自己満足することに慣れ、ひたすら忙しいだけなのを耐える。時には華やかな場に身を置いては虚栄心で自分を慰める。でも所詮ラインの上司や部長やその他の幹部のために、期待されるとおりに御輿を担いでいただけではなかったでしょうか。「世の中には、勇敢なことを個人としてやる人がいる」という言葉は私の心に突き刺さりました。

 トレッキングが終わった時、JTSを辞める私の決心はほぼ固まっていました。私は先の事はどんなに不確かでも、後ろを振り向かずにやってみようと決心しました。人間は時には、先が見えないからこそ、手探りで先に進んでみようとする勇気を持つことが大事だということをトレッキング中に発見したように思うのです。

 ネパールの人たちが力強く生きている姿を見て、私だって何とか生きられるのではないかと思います。私は少々の貯えを自己再発見のために投資しようと思います。東京ではわずか一ヵ月分にも満たないお金も、所によれば数ヵ月分にもなります。退職金も合わせれば、二、三年は何とかなりそうです。

 これから少し野生的な体験をすることになります。果たしていつまで持ち堪えられますか。もし納得して無事文明に帰還出来れば、またお便りさせていただきます。

『生まれ出る小鳥は自らのくちばしで殻を破る』。佐竹様が若いころ、この言葉がいつも頭の中で鳴っていたと話されたことがありました。私も生まれ変わるために、自らの嘴でこれまで閉じこもっていた殻を破る努力をしてみたいと思います。

 貴重な出会いと再生の勇気を与えて下さった佐竹様に感謝しております。yamayuri.gif (8744 バイト)

 どうかお元気で。

                                            百合

佐竹慶太様 」

 

 手紙の中にも日付や住所はなく、ただ百合とだけ書かれているのが手がかりのすべてだった。しかし慶太は改めて封筒を見て、それがボンベイから出されているのを消印からかろうじて読み取った。日付もどうやら六月二十七日と読めた。それは百合のJTS退社の話しを山田里子から聞いた日であった。

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