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小さな個人美術館の旅(37) 国吉康雄美術館 星 瑠璃子(エッセイスト) 岡山駅から歩いても行けるべネッセコーポレーションの本社ビルは「これが出版社?」 と驚くような洗練されたモダンな建物だ。一階ロビーから吹き抜けの階段を上ると、広々と明るい展示室があった。かねてより国吉作品を収集してきた福武哲彦前社長の遺志をついで、新社屋の竣工を機に美術館が開設されたのは1990年のことである。アメリカ絵画に独自の道を切り拓いたクニヨシの、文字通り苦闘の足跡を示す作品が静かに並んでいた。 生涯の作品は、およそ三つの時期に分けられるだろうか。技巧を隠したプリミティブな画風の二十年代。かの有名な「デイリー・ニュース」や「もの思う女」など、沈んだ赤や褐色や独特の青を使って、疲れて孤独なアメリカの女を描く三十年代、四十年代。思い切って鮮烈華麗に色彩を一変しながら、描かれた主題はますます重く沈潜してゆく四十年代後半から五十年代へかけてである。どの時期の作品からも、当時のアメリカの荒涼たる自然や、そこに生きる人々の姿がずしんと心に響くリアルさで迫ってきて、私をその前に釘づけにする。しかし、これは単なる描写とは違う。それは、そこで生きる人たちの悲哀感を越えて、人間が生きてあることの、存在そのものの哀しみの表現といえるかもしれなかった。 岡山生まれの国吉康雄がアメリカに渡ったのは、1906年(明治39)、十七歳の時だ。父は人力車夫。ひとりっ子だったが、日本にいても大した世界が開けるとは思えない。岡山県立工業学校の染織科を一年の一学期で退学、たった一人で横浜から船に乗った。 カナダのバンクーバ−に上陸し、一週間かけて汽車でシアトルに着いた。金もなく、一人の知人、友人がいるわけでもない。日本人経営のホテルの親切なマネージャーの世話で機関車洗いの仕事についた。馬小屋のような宿舎の藁を敷いたベッドに寝て、起きれば無言で水を運び、円形の鉄道車庫で機関車を洗う。言葉のできない日本人には、まずはそんな仕事しかなかった。それが少年国吉のアメリカでの第一歩だった。 肉体労働には自信があったが、こんなことのために遥々アメリカまで来たわけではない。機関車洗いには早々と見切りをつけ、ビル掃除などをしながらミッション・スクールに通った。生活はそれなりにどうやら成り立ったが、南国生まれの少年にはアメリカ北西部の冬の寒さが骨身にしみる。少しずつ金を貯めて暖かいロスアンゼルスに移り、雑役をしながら夜間の公立学校へ通った。ともかく言葉ができなければ始まらないのだ。苦労のなかで、彼はひとつの表現手段を考え出した。絵なら通じる。万国共通語だ。そうして彼は、ようやくアメリカ人と触れ合う道を見出したのだった。やがて一人の先生がその才能に目をつけ、美術学校へ行くことをすすめた。絵描きになるなど夢にも考えたことはなかった。宇余曲折の末、ロスアンゼルスの美術学校の夜間部で三年間学んだ後、ニューヨークへ出た。 アカデミーに通ってもう一度基本的な勉強をし直した後、進歩的なことで有名な美術学校インディペンデント・スクール・オブ・アートで二年間学び、ヨーロッパの前衛美術にも触れた。が、どうしても自分の求めるものが見つからない。次に彼が選んだのがアート・ステューデンツ・リーグの夜間部で、二十七歳からの四年間を学ぶのだが、ここで彼は初めて師と呼べる人にめぐりあったのである。自身も若手画家だったケネス・ヘイス・ミラーは、一目で国吉の才能を見抜いた。豊かな天分と技術を持ちながら、まるで芸術的な磨きのかかっていない野性の馬のような青年の才能を。翌年、在学中のまま初めて公募展に出品、ついで反アカデミーのペンギン・クラブにも作品を出し、それが機縁となって、近代絵画のパトロン、ハミルトン・イースター・フィールドを知る。その後のフィールドの物心両面にわたる援助がなかったら、国吉は生活の苦しみからなかなか逃れられず、制作に打ち込むこともできなかっただろう。後に自身も教授となるアート・ステューデント・リーグは、画家クニヨシの出発の場となったのである。 その後のクニヨシの活躍ぶりについては、いまさら書くまでもないだろう。渡米二十年たらずでアメリカ現代絵画の旗手の一人となり、「日本生まれのアメリカ人画家」として勢力的に作品を発表、数々の栄誉に輝いた。それは第二次世界大戦の間も変わらず、「敵国人」に最高の賞を与えることにアメリカ各地で異論が出たほどであった。 ともあれクニヨシは、終生アメリカ画壇の一人者として活躍し、指導的立場にあっては、自身がこの国に助けられたように若い人々を助けてゆくのだが、父の病気見舞いで戦前に一度帰国しただけで、その後死ぬまで、二度と日本を訪れることはなかった。帰国の折に開かれた二つの展覧会も、たいした反響を呼ばなかった。フランス一辺倒の当時の日本洋画壇にあって、この有名な「アメリカの画家」は、あまりに異質だったのだろう。1953年、六十三歳でニューヨークで没した。移民法が改正され、切望していたアメリカの市民権がようやく取れるようになった年には、ガンの病床にあって書類にサインをする力が残っていなかったという。
そのクニヨシの作品が、いまこうして故郷の美術館に飾られている。意識するとしないとにかかわらず、東洋と西洋文明の葛藤のなかに苦しみ生きつつアメリカ人になりきろうとしたクニヨシ。彼の中に流れる日本人の血が、こんなにも哀切に私たちに響いてくるのだろうか。
星瑠璃子(ほし・るりこ) このページについてのお問い合わせは次の宛先までお願いします。 www@hb-arts.co.jp |