2005年(平成17年)10月20日号

No.303

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花ある風景(217)

並木 徹

簀の外の路照り白らむ心太  木歩
 

 関東大地震(大正12年9月1日)に遭遇、26歳で死んだ俳人富田木歩を知ったのは飛田八郎著「隅田川」(藍書房・平成17年9月25日刊)であった。毎日新聞の「毎日俳壇」(10月2日)にも「木歩忌や地図より消ゆる古家並」(東京・斎木百合子)とある。選者の岡本眸さんは「俳人富田木歩。病苦と貧困の中ですぐれた作品を遺した」と評している。
 「隅田川」の第2章に木歩が出てくる。香都子という女性が落ち込んだ時に雑誌で目に留めたのが木歩の「七夕や髪に結い込む藤袴」である。それから木歩の句に関心を持つ。木歩は2歳の時高熱のため両足が不自由になる。このため小学校に通えず自宅で、いろはがるたやめんこで字を覚えた。両親は鰻の蒲焼の店「大和田」を開いていたが2度の洪水で一家はどん底生活となる。二人の姉は芸妓となる。木歩は座っても出きる友禅型紙切りの奉公に出た。その間少年雑誌の愛読と句作に励む。香都子はいう。「何とか歩きたいという一心から木の足を作ったのですって。結局、木の足は思い通りには出来ず、半ば諦めたころ材木の残りがクコの茂る垣根に立てかけてるのを見たのね」 そのときの句が「枸杞茂る中よ木歩の残り居る」である。それまでの吟波を木歩と改めた。香都子は続ける。「足の不自由な宿命を、それはそれとして受け入れよう、そんな自分を見つめよう。そして俳句に打ち込もうそんな気持ちを込めた俳号」 大正6年7月のこと。木歩は20歳であった。
 堤通の枕橋近く、隅田公園の南口あたりに「俳人富田木歩終焉の地」と記した人の背丈ほどの金属柱がある。関東大地震の時、友人の俳人、新井声風は向島須崎にあった木歩の家へ駆けつけた。堤に出て避難する人ごみの中で木歩を見つけ背負って吾妻橋へ向う。枕橋近くに来ると避難の人々のため思うように歩けない。堤の桜並木や荷物に火が移る。ここで何千人もの人々が亡くなった。木歩もその一人であった。声風は津波で水かさの増した隅田川の激流に流されたが奇跡的に助かった。木歩を救えなかったのを「終生の痛恨事」とした声風は後に「富田木歩全集」を出すなど精力的に木歩の業績を世間へ広めた。終焉の地の角柱に「かけそくも咽喉鳴る妹よ鳳仙花」の句がある。肺を患い死期の迫った妹を歌ったものである。木歩はすぐ年下の妹を看病をするが、妹もまた兄思いであった。その妹は大正7年7月になくなる。3歳年下の弟はすでにその年の2月に肺結核で死んでいる。12月には木歩自身も血を吐く。そのときの句「我が肩に蜘蛛の糸張る秋の暮」。
 三囲(みめぐり)神社には「夢に見れば死もなつかしや冬木風」の句碑がある。木歩の周りには悲しい出来事が多すぎる。夢に出てきたのは妹か弟か、隅田川で水死した句友のことか。やがて自分も後を追う・・・「死もなつかしや」の表現は私には思いつかない。香都子が最後に難問を出す。樋口一葉、石川啄木、富田木歩の三人に共通点は何か。三人とも短命ながら僅かな間にもいろんな人と物と巾広く関係を結んだことだという。生涯の豊かさとは体積で測定できる。著者はそれを「生涯深度」と名付ける。香都子は喫茶店でコーヒーとトコロテンを注文して「簀の外の路照り白らむ心太」の名句を味あうという。私もそうしよう。

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