2005年(平成17年)7月20日号

No.294

銀座一丁目新聞

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追悼録(209)

「8月15日の田中静壱大将」

 「毎日新聞百年史」(1872―1972)を時折ひもとく。先輩たちが難局に際してどのような決断をしどう対処したか。また時代に応じてどんな企画を立てたかを知るためである。参考になる。
その百年史に昭和20年9月19日の毎日新聞社会面トップを飾った特種「8月15日事件」の経緯について書いてある。8月14日から15日朝にかけて陸軍省、参謀本部の徹底抗戦派将校が近衛連隊を巻き込み、宮城を占拠し、終戦の大詔を阻止しようとした。この反乱を東部軍管区司令官、田中静壱大将(陸士19期)が乗り出して鎮圧した事件である。知られざる戦争中の秘話に読者は驚いた。これが戦争内幕もののトップバッタ―となり、他社も戦中秘話を掲載し始めたとある。これを書いた当時社会部デスクの狩野近雄さん(後に役員となる)の話。「きょうは何もねんだ、というので考えているうちに、そうだ、もう検閲がもうない、よし書 けるということだ。惰性の中に没してしまいがちな日常から目覚めたのだ。もちろんこの事件は、僕が軍司令部にずっといたから書くとなれば簡単だった」
 デスク稼業で辛いのは社会面のトップになるネタがない時だ。良い材料を常に頭の中に用意しておくのが名デスクである。狩野さんは毎日の名物記者で、顔が広く、食通であった。東京裁判の取材もされた。
 狩野さんは8月10日重臣筋の取材でポツダム宣言受諾通告の情報を知ると、顔見知りの田中大将に知らせた。田中大将はただちに全軍団長の集合を命じ、11日正午に集った軍団長に「承詔必謹」を説き、軽挙妄動を戒めた。14日夜、陸軍省の中堅将校が森赳近衛師団長を射殺、ニセの師団命令を出して宮城内を占拠した報告を聞くと、参謀、副官を連れて将官旗をつけた車で宮城に向う。侍従武官室に乗り付けて、監禁されていた蓮沼蕃武官長(大将・陸士15期)を助け出し、近衛歩兵3連隊長、大隊長を説得、反乱の将校達にやさしく諭した。「陛下の御苦衷をお察しすればこそ、われわれは、軽挙妄動をしてならぬ。我々以上に陛下は苦しんでおられる。それが貴様達に分からぬはずがない。我々の祖国日本が、姿を消してしまうか、或は、陛下を中心に弱いながらも残るか、その瀬戸際に我々は立っているのだ。良いか、貴様等が正しいと信じてやっている事が帰って陛下を苦境に陥れていることになるのに気付かぬか」拳銃を握り締めていた将校達の拳が、解けてきた。田中大将の説得は3時間に及んだという(当時社会部長、森正蔵著「旋風二十年」―解禁/昭和日本史―・光人社刊より)。陛下の終戦の放送は無事に終わった。首謀者の椎崎二郎中佐(陸士45期)畑中健二少佐(陸士46期)は宮城前で、また航空士官学校区隊長、上原重太郎大尉(陸士55期)も航空神社前でそれぞれ自決した。
 田中大将にはその日のうちに陛下から「軍司令官の処置は適切で深く感謝する」旨のお言葉があった(8月15日午後5時15分)。毎日新聞百年史は言う。「この反乱鎮圧が日本の運命にとってどんな大きな意味を持ったかがこれによって明らかである」と。田中軍司令官は8月24日、司令官室で拳銃によって自決。享年58歳。遺書には「私は方面軍の任務の大半を終わりたる機会において将兵一同に代わり陛下にお詫び申し上げ、皇恩の万分の一に報ずべく候・・・」とあった。戦いに敗れた日本の軍人は自分の信念に従い夫々に敗戦の責任を取った。

(柳 路夫)

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