2004年(平成16年)10月1日号

No.265

銀座一丁目新聞

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自省抄(7)

池上三重子

 8月2日(旧暦6月17日)月曜日 曇りのち雨

 どうにも気分が浮かない。右膝下から足首までの傷による疼きのズッキンズィィンが頭痛と呼応? といおうか。ちょうど盛夏を謳う熊蝉しぐれが降るとも湧くとも判別利きがたいように。
 しかし介護者にむける面持ちは外面菩薩内心如夜叉がふだん顔となっているようだから、痛いでしょうと私の心象をさぐるまなざしを見ると瞬間まばたきが起きる。ごまかし。心と体の相関関係のふしぎさだ。
長期にわたる、それも半世紀にわたる床上生活者は、外見の惨をおぎなうようなにも慈しみの心を自身に向けていくように思えてならない。
 自身のこころうごきを見つめるのは楽しい。まるで寸分の隙間すら恕さないように、恕されないように見つめ見守る律義さは実に愛しい。
 自愛というこうした慈しみの心の動きが長い病床生活の涯に待っていようとは予想できなかった。悲しみも苦しみも他に染すまい染してはならぬとする奥の奥の息使いを、神が、私のさぐり当てた神なるものが嘉されたというべきではなかろうか。
 神を意識して求めた記憶はない。
 苦しいときは唯唯苦しみ独り苦しみ他にた助を求めたことはない。求めることなくひたすら苦しみにうち任かせ委ねきったことがつまり、形をもたぬ神の存在を信頼していた証だったのであろうか。
 心理学者は心理学のうえで明快に私の模索の道程を説明し、精神医学もまた事もなげに言い説くのでは無かろうか。
 咽頭がかわいて今係長さんに高千穂牧場の日向夏柑一パック。ありがたいことよ。贈り主の大久保お静先生と食介護の係長さんに謝念ふつ沸。
 外傷の薬を変えましょうとの棚橋女医さんのその薬はまだこない。しかし入浴後そのままの、塗り薬なしもかえって空気にふれる効果をもたらすのであるまいか。
 浴後あれほど疼いた傷が脚をうごかせば元のままの痛みながら、じっとしている限りでは鎮待っている。昔、日赤のナースに聞いた戦線では、日光浴が治療でった。塗布薬から解放された患部が皮膚呼吸しつつ自然治癒! とよろんでいるかも知れぬ。
 一息いれた心と体にエネルギー復活か。ペンの動きがはつらつ化。嬉しいなあ。視ることにまばたきは頻繁に必要だが、滂涙は雫となって三、四滴落ちっ放視だがどうにか保った。只今,四時四十五分。胸上のセットを解き、涙の跡を拭くついでに夕顔
もすませていただこう。
 『葉っぱのフレディ』もマルタ島の猫の写真集も、目の養生にまた役立ってくれた。眼精の疲労を無視して読んだ「楽園後刻」は、ともすれば強引な読みをもめがちな私に、懲罰を与えた。眼痛という懲らしめを。
 母よ!このような過ごしで下。鉢のほおずきも花瓶の縞芦・猫水の尾・撫子・白水引草も四日目、今日を元気です。夢見にお待ちつつ!!



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