2004年(平成16年)8月20日号

No.261

銀座一丁目新聞

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追悼録(176)

林健太郎さんを偲ぶ

  もと東大総長の林健太郎さんが亡くなった(8月10日・享年91歳)。父親は海軍の軍人である。海兵の32期で、同期には山本五十六、島田繁太郎、吉田善吾、塩沢幸一の4人の大將をはじめ11人の中将、16人の少将 が出ている。父親は気骨のある人物であった。中佐で戦艦「扶桑」の副長をしていたとき、ワシントン条約(1922年・海軍軍備制限条約)で破棄することになった建造中の戦艦を砲撃演習の標的として海中に沈めることになった。その標的を「扶桑」が曳航する話になった。扶桑をそんな目的に使うのは反対だと意見具申をした。このため当局の忌諱にふれ、特務艦の艦長に飛ばされて大佐昇進と同時に予備役編入となる。40半ばの父親は国語漢文の教員資格をとり中学の先生となり5人の子供を育てたという。
 林さんは一高の教授(高等官)をしていた昭和19年12月横須賀海兵団に入り、竹山海兵団で海軍二等水兵として訓練を受ける。31歳であった。この頃、高等官の応召は珍しくなかった。大連高商の教授(高等官五等)をしていた中学時代の33歳の恩師は昭和20年7月に応召され、終戦でシベリアに抑留、辛酸をなめられた。林さんの父親は戦争が始まると志願して現役に復帰、朝鮮の済州島で航空司令となる。林さんは新兵で訓練中、林さんを一高の先生と知った予備学生の分隊士が呼びだし、分隊士室で「先生ご苦労さんですね」とねぎらわれて酒などをご馳走になり、文学論や哲学論を交わした。また、吉田善吾海軍大将の計らいで「副官付き」となり、他の新兵さんよりは恵まれた境遇であった。もちろん林さんは新兵の中では抜群の成績であった。
 林さんの名を高からしめたのは1968年(昭和43年)の東大紛争時、文学部長として学生と173時間に及ぶ団交を行い、学生側の要求をすべてノーと拒み通したことである。団交の最後の方では3人の学生が次々に発言を求め、学部長に対してこのようなことをするのはよくないことだとスト指導部を批判したそうだ。当時、毎日新聞の社会部のデスクであった私は「骨のある教授がいるものだ」と感心した。
 歴史に「イフ」はないといわれるが、林さんは「イフ」は必要だと主張された。その著書の「昭和史と私」(文春文庫)にはこうある。歴史は人間の行動によってつくられる。行動を決定するのは人間の意志の力による。だから人間は自己決定の自由を持つとともに行動に対して責任も有する。この意味から歴史上の「イフ」を考えることは無意味なものではなく歴史の意味を考える上で必要であるという。眼からうろこが落ちる思いがした。心からご冥福を祈る。

(柳 路夫)

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