単価二十七円也の素焼を売っているのですよ、安いでしょと彼女はこともなげ。忝ない教師冥利。戦時中、耳にすることの多かった感状と感の付いた熟語を思い出していた。
彼女の父親は高校教師。謹厳で実直そうな通勤途上のすがたが忘れがたいが、お話を交わしたことはない。母上は社交型の小柄な白いエプロンの似合う愛想のいい話好き。同学年の同僚、書道で知られた先生が個人教授。弟妹も彼女とともに市内の展覧会に入選の栄誉がどうも楽しみらしかった。親心よ。
書道も画もからっきし駄目の私はもっぱら言葉による師範。それでも他級に見劣りするのは防ぎたかった。末松先生という先記の個人教授のお陰はありがたかったなあ。職員室の机の中のお弁当が空になってがっかりさせられた犯人はその先生。でも公的にも私的にも不遇だったが頭がきれて人の善いのが持ち味。
同学年一年間のお付き合いが今もなつかしい。
半農半漁の村の学校は、生家とからたち垣が接する今までの学校・母校に比較するとき、ものかなしい程、教材も教具も設備万端も遅れていたが、先生さまと呼んで廊下に坐って挨拶する父兄もまじる情の濃い素朴さは、心の豊かさと私には映じた。
中の切り、東の切り、西の切り、西六十丁、東六十丁、下八丁は集落の名称。干拓事業の北から南へ移行した歴史を物語り、海近くは田圃らしい田圃は見あたらなかった。
大晦日の夜は不知火をみるための小屋造りが、男の子たちの愉快事。らんらんと眼きらめかせて語り競う子ら・・・。温和な村柄で教育熱心な父兄が頼もしいと先生方の希望が集まるといわれた生家校区の子ら・・・何と趣を異にすることか。
しかし子らの可愛さにかわりはなかった。
海苔景気に浮かれて札束をふところにどてらすがたのまま京阪へ翔び,家産を使いはたして一家離散も噂として二、三聞いたが、今日きてくれた子たちのなかには悲運な家庭はなかった。
五十年の年月は昔々のその昔。子を持ち孫に恵まれて日常生活をいとなんでいればか、ありがちのじまん話は聞かれずじまい。ただただ往時の学校生活。小学・中学が主。ドッジボールは体育の時間がもっぱら。
むきになったあまりに投げ返したとたん滑ってしたたかに臀部をやられ、助け起こされた醜態も話題の種。砂ぼこりを払いつつさり気なげに見廻せば気の毒そうな。笑うに笑えない顔、顔、顔・・・。
強制的につけさせた日記帳。下校時に持ち帰る日記帳。私の朱ペンの評語をくいるように読む面の輝きを知っていれば、時間が工面できなくて戻す辛さ。申し訳さは折々に息吹かえす。
真剣に一心にひたすらこころ傾けて教え育てたつもりが実は逆。こちらが教えられそだてられ充足の日々を過ごさせてもらっていたのだ。
子らよ!
病むなかれ。
事故なかれ。
嫁がせても姑となっても祖母となろうとも身は宝。体は健康は自己管理を怠るなかれ。センセイと言われるほどのバカでなしとは教師専門養成のいまの教育大・昔の女子師範学校時代、誰かに聞かされたのか話題となったのか。自嘲は愚よ。含蓄ふかい言葉と味合うたがいい。過去のことではない。日々が己がいのちを愛しもうよ。私よ!
楽しくて嬉しくてありがたくて、果ては母と父への謝念にいたりついた私よ!
洋子ちゃん、和子ちゃん、和代ちゃん、坂ちゃん、照るちゃん、友ちゃん、悦ちゃん、・・・今日は有り難うよ。末広がりの人生を祈りますよ。
母よ!
ありがとうございます。風樹の嘆をささげ尽くす時、私に憧憬の死がまいりましょうか。お見守り下さい・・・!!
池上三重子さんの略歴
1924年福岡県三潴郡大莞村(おおいむら・現大木町)に生まれる。福岡女子師範(現福岡教育大)卒業後、小学校教諭を務め、50年(昭和25年)に結婚、54年〈同29年)30歳の秋に発病、多発性リューマチ様関節炎と診断される。やがて不治の宣告を受け63年〈同38年)に.夫の愛ゆえに妻の座を返上.病床に金縛り同然の身を母キクさんに支えられながら療養生活を続ける.88年〈同63年)たくまざるユーモア精神で終生、池上さんを励ましつづけた母上を105歳で見送る。
著書に.歌集「亜麻色の髪」、「妻の日の愛のかたみに」「わが母の命のかたみ」。夫への清冽な愛を短歌とともに綴った「妻の日の愛のかたみに」は感動を呼んでベストセラーになり、乙羽信子主演でテレビドラマに、若尾文子主演で映画になる。
現在、福岡県大川市の永寿園で療養中。
「書くことは生きること、心の平穏を得ること」と「自省抄」と名付けた日録を綴っている。
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