2004年(平成16年)3月10日号

No.245

銀座一丁目新聞

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茶説

裁判員制度の運用はおおらかに


牧念人 悠々

 本来、法律は国民を守ってくれるものである。けして司法は私たちから遠い存在ではない。だからといってこれから、裁判員となって裁判官と一緒に裁判をしてくれといわれても困る。有罪か無罪かを決め、刑の重さも決めると言うから二の足を踏まざるを得ない。20歳以上の有権者の中からくじで選ぶという。まず当たる確率は低いと思うが、この様な場合、困ったことに不思議と当たる。
新聞の社説は言う。「司法への参加は公共精神を養う学校とも言われる。市民が司法という統治の仕組みに責任を持つ事で、お上依存の社会を変える可能性を持っているのだ」(3月3日朝日新聞)。うまいことを言う。不幸にして裁判員のくじに当たったら断固として私は拒否する。理由は罪多き人間であるからだ。小学校時代、中国東北部で、中国人のまくわ売りから一人が値段を聞くふりして、その隙に他の一人がまくわを盗んで逃げたり、畑からキュウリを盗んで食べたりした。新聞記者時代、借金を踏み倒したり、被害者の家に無断侵入して写真を持ち出したりした。70歳を過ぎたつい最近、殺意を抱いたこともある。
 聖書にもある。「なんじら人を裁くな、裁かれざらんためなり」(マタイ福音書)人間は自分のことを棚に上げて人の非を攻めるのを常とする。この様な人間には成りたくない。「素人の健全な常識が裁判に反映される」のを期待しているとしたら、それにふさわしい人を選べば良い。温厚でバランスがとれて常識人が沢山いる。筆者は普通の市民に比べれば法的知識も有り、裁判の場に出ても気後れしないが、いささか常識に欠けるし、罪深い人間である。くじにあったとしてもこの様な人間は失格にしたら良い。正当な理由なくして裁判員に成るのを拒否できないらしいが、そこは運用の妙である。勤労、教育、納税と並んで裁判員を国民の義務なんて大げさなことを言わずに大らかに対処してはいかがなものか。

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