2003年(平成15年)6月10日号

No.218

銀座一丁目新聞

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追悼録(133)

明治天皇は乃木大将が嫌いであったか

 文学者、ドナルド・キーンさんは「明治天皇は乃木大将が嫌いであった」という異説を唱える。その著「明治天皇を語る」(新潮社)によると、理由として一つは、山縣有朋が陸軍参謀總長に乃木大将を推挙したのに、これを拒否して、学習院 院長にしたこと。二つ目は日露戦争での旅順攻撃のときに大勢の日本兵を戦死させたことをあげている。
明治39年1月凱旋した乃木大将は8月宮内省御用掛となり、正式に学習院院長には40年1月になった。たしかに山縣の「乃木を陸軍参謀總長に」の内奏を明治天皇は断っている。その数日後、天皇は山縣に「近々、朕の孫達三人が学習院で学ぶことになるが、その訓育をたくするには乃木が最適と考えるので、そのように取り計らうこととする」と仰せになった。
 陛下が乃木の学習院長へとじきじきのお声をかけられたわけだが、このようなことは初めてではない。台湾総督辞職のときも第三軍司令官更迭の動きがあったときなどは「乃木を憤死させる気か」と陛下自らの意向で中止された経緯がある。山縣は「乃木は臣として冥利に尽きる」とため息をついた。乃木と親友の石黒忠悳は「今必要なのは専門家ではなく新しく大胆に教育に取り組む気概を持った人です。最近の遊惰に流れつつある華族の子弟を鍛え直すには、軍律の厳しさを身に付けた貴方しかいません」と諭している(渡辺淳一著「静寂の声」−乃木希典夫妻の生涯)。
 上原勇作元帥(士官生徒3期)は副官の今村均少佐(のち大将・陸士19期)を通じて谷寿夫大佐(のち中将、戦犯として刑死・陸士15期)に乃木大将について次のように語っている。「誰がなんと言おうとも、旅順は乃木以外に落とせるものはいない。乃木を変えなかったのは大山総司令官であったし、誰も不可能。乃木大将でなければ旅順は陥落させることは出来なかった」(楳本捨三著「陸海名将100選」秋田書店)ロシア軍にとっても最後の一兵が倒れるまで攻撃を続ける乃木軍は恐ろしい存在であった。
 明治10年2月、西南戦争で賊軍に軍旗を奪われて以来、人生の重大な岐路あたって陛下からお心をかけられた将軍は乃木大将しかいない。明治天皇が乃木をお嫌いであったはずはない。むしろ、その愚直な性格を好まれたのではないかと拝察する。大正元年9月13日、明治天皇ご大葬の日乃木大将(64歳)は夫人静子(54歳)と殉死する。辞世の歌。「うつし世を神さりましし大君のみあとしたいて我はゆくなり」「神あがりあがりましぬる大君のみあとはるかにをろがみまつる」夫人静子の歌。「出でましてかへります日のなしときくけふの御幸に逢うそかなしき」
 なお明治天皇の三人のお孫さんは昭和天皇、秩父宮様、高松宮様である。

(柳 路夫)

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