2003年(平成15年)6月10日号

No.218

銀座一丁目新聞

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静かなる日々
─ わが老々介護日誌─

(4)
星 瑠璃子

 5月21日

 「また病室を変わるんですって!」

 母は気の毒なくらい恐慌を来して訴えた。病院側にもいろいろ事情はあろうが、手術後5日目、10日間で4回の部屋替えはちょっと多すぎはしないか。しかも、毎日通っているこちらには何の相談もないのである。

 こんどの部屋は1日1万4千円の個室だが、お金のことはともかく、今後の母にとって個室というものがほんとうに必要といえるのかどうか。これまでは術後の処置や経過観察のためにそれは絶対条件だったが、夜中に目覚める部屋に一人ぼっちということが、94歳の母にこの先耐えられるかどうか。自宅では広い寝室に一人で休んでいたわけだが、病院となると雰囲気がまるで違う。たとえば二人部屋で、隣のベッドの寝息が聞こえないまでも、気配を感じられるような部屋はないものだろうか。つい詰問調になって問いただす私に、「まあ、しばらく様子をみてみましょう」と婦長さんは軽くいなした。そんなことは取るに足りないとでもいった調子で。

 5月25日

 寝返りも打てない生活はどんなにか辛いだろうに、母は機嫌よくしていてくれる。

 思えば、これまで不機嫌な母を見たことがなかった。思い出す母は、どんなに辛いときも朗らかに笑っていた。つかの間まどろむ母の枕元でさまざまな情景が浮かんでくる。

 第二次大戦のただなか、集団疎開の旅館の窓から白いパラソルをさして坂道を下りてくる美しい母を見つけたときの嬉しさ。戦後の混乱期、全財産を失って立ちすくむ絵描きの父に代わって、せっせと買い出しに行った母。高価な着物も帯も自分のものは何もかもジャガイモやカボチャに替えて(お米を出してくれる農家はほとんどなかった)、大きなリュックを背負った母。小学校3年生だった末っ子の私はいつも母と一緒で、自分の小さなリュックサックに小さなカボチャ一個だけを入れてもらって、それでも一人前になった気持ちで、えんえんと歩いた田舎道。「奥さん、こんな時代は長くは続きませんよ」と、珍しく母を気遣って慰めてくれたお百姓のお爺さん。日の当たっていた農家の縁側。いよいよ生活が困窮してくると、母は自分が働けばいいのだと忽然として悟り、ある雨の朝、着物姿に蛇の目をさし、高下駄に爪革という古典的な出で立ちで通信社の試験を受けに行った。ただ一人の女性記者となってさっそうと働きはじめたそれからの母。そんな母を毎晩私は駅まで迎えに行くのだったが、駅前の電話ボックスに入って待った寒い夜。疲れ切った様子で、うつむきかげんに改札口を出てきた母。ボックスからぴょんと飛び出る私を見つけて、はっとしたように明るい笑顔になって手を振った母。尾瀬沼にスケッチ旅行に行くとて、はじめてのズボンをはいて、さもおかしそうに笑っていた母。

 振り返って考えると、母と私はふつうの母娘よりも深い絆で結ばれてきたような気がする。父は私の大学時代に亡くなったが、母とはこれまで六十何年間も離れて暮らしたことがない。そうしたいと思ったことも一度もなかった。友人達に半ば呆れられながらも。

 5月27日

 緊急入院から二週間が過ぎ、ベッドの背を起こしてもらって母は一人でも食事ができるようになった。けれどもその他の時間は、ただただ同じ姿勢で寝かせられている。それが辛いらしく、痛い、痛いと苦しそうだ。腰の辺りに大きな空気枕が押し込まれていて辱そうを防ぎ、体位交換の時間割もベッドの上に貼られているが、いつ行っても同じように仰向けに寝かされている。体位を換えても、すぐに戻ってしまうらしい。

 昨日は次兄夫婦、今日は長兄が来てくれた。長兄はいつも昼頃に来て、夕方六時頃までいてくれる。次兄はすぐに帰る。性格が全く違う。「恒ちゃんは風のごとく去りぬよ」と母は笑っている。

 はじめて足立さんを連れて病院へ。昨日から一日に一回だけだが車椅子に乗せてもらえるようになり、その時間とちょうど重なったので、三人一緒にロビーでアイスクリームを食べる。親友Kが送ってくれた岩手県は奥中山のあっさりと美味しいアイスクリームだ。足立さんは久しぶりの母を見て、「あんまり元気なのでびっくりしてしまったわ」と言うが、これはたまにお見舞いに来られる方が「元気そう、元気そう」と言って下さるのと同じであろう。こういう時間ばかりではないのだが。

 車椅子に乗るのはこれで二回目だ。看護師さんが三人がかりで「せえーの」とベッドから平行移動させる。コワイ、コワイと母は大騒ぎだが、ベッド状にした車椅子に乗せてもらって背中を真っ直ぐに立てると、とても楽になる。寝たきり状態から、このときばかりは解放されるのだから。知識としてしか知らなかった「寝たきり老人」という言葉の意味が、ずっしりと重い。

 手術後一週間、ここまではなんとか順調に来た。「立てれば百点満点」と主治医は言ったが、いつの日か本当に立てるようになるのだろうか。自力でトイレに行ける日が来るのかしら。帰心矢のごとき母を見るにつけ、焦ってはいけないと自戒しつつそればかり考えてしまう。もし許されるものなら、なるべく早く退院し、リハビリなどは通院で行いたいと思うのだが、問題はトイレだ。やっぱり夜は「おむつ」ということになるのだろうか。

 介護保険で何ができるのか、できないのか。いまのうちに調べておかねばなるまい。

 有料の老人介護施設、例えば「シルバーヴィラ向山」のようなところでは、こういう場合のトイレはどうなっているのだろうか。特別養護老人ホーム「土支田創生苑」ではどうか。一度見て置く必要があるだろう。施設長の岩城祐子氏にも会ってみたい。岩城さんは有料老人ホームなどまだ誰も考えなかった時代に「シルバーヴィラ向山」を創り、こんどまた「土支田創生苑」を開設した人。以前から話を聞いてみたいと思っていた。母のことばかりでなく、さまざまな介護の実態を。

 夕方、激しい雷雨があった。上がると、虹が出た。深い藍色の空にかかる大きな鮮やかな虹だった。病院からの帰りに見たこの美しい虹を、私は決して忘れないだろう。

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