1999年(平成11年)3月1日

No.67

銀座一丁目新聞

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小さな個人美術館の旅(61)

三岸節子美術館

星 瑠璃子(エッセイスト)

 名古屋から快速で十五分。尾張一宮駅で降りだした雨は、バスを降りるころには本降りになった。通りを横切って細い道に駆けこむと、すぐそこがもう美術館である。小雨に煙る町は、かつては旅籠や商家の立ち並んだ起(おこし)の宿場の街道筋。大きな屋敷や土蔵がそこここに残って古い歴史を偲ばせるが、美術館もそんな町にいかにも相応しいたたずまいだった。そして何よりも、「女流画家は育たぬ」といわれた時代に、奇跡のように現れた激しくも美しい個性に似つかわしい堂々たる建物である。「ありがとう」と、私は思わずだれにともなくお礼を言った。

 中へ入る前に、ぐるりと裏の方までまわってみた。雨などもう気にしてはいられない。

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三岸節子美術館

 正面は思い切って丈の高い端正なレンガづくり。側面からは、特色ある鋸屋根の上に高窓が並ぶ一棟と、それに繋がる壁面いっぱいに大きな窓のある一棟が重なりあって見える。さらに進むと、白壁の倉が現れた。三つの建物が響きあう美しい眺めだ。しかしもっと驚くのは建物の間を流れる水路で、動くとも見えぬ水はレンガ色の壁や灰色の空を映しながら微かなさざなみを立ててすべり落ちてゆくのだった。あとで聞けば、これは三岸絵画の重要な転機のひとつとなったヴェネチアの運河をイメージしたものとか。レンガづくりや高窓は、生家が経営していた紡績工場の雰囲気を生かし、倉は当時のままに残っていたものを修復したのだという。人手に渡っていた一千坪の生家跡地を、森秀夫市長が大変な努力と熱意で買い戻して下さったのだと、これは三岸さん自身の言葉であった。(『花こそわが命』)

 三岸節子がここ愛知県尾西市(昔の中島郡起町)に吉田永三郎の四女として生を受けたのは、1905年(明治38)のことだ。先天性股関節脱臼という十字架を背負って生まれたものの、富裕な地主で織物業を営む父のもと、不自由のない恵まれた環境に育った。しかし豊かな少女時代も、十五歳の時、第一次世界大戦後に日本を襲った経済大不況で家が破産して終わった。妹はショックで病気になり間もなく亡くなってしまうのだが、節子は「必ず何者かになって一家の苦しみをとりかえそう」と決意したという。女子美入学のため上京するのはその翌年である。

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三岸節子美術館

 しかし「反骨はなはだしい生意気な生従」にとって、学校は退屈以外の何ものでもなかった。首席で卒業したその年に不生出の洋画家、三岸好太郎と結婚。三児をもうけるが、好太郎が三十一歳の若さで波瀾に満ちた生涯をこつぜんと閉じてしまうと、節子はたった一人で苦難の道を切り拓いていかねばならなかった。才能ある若い未亡人に、周囲は決して寛容ではない。「あえぎながら、息せき切って、血を流しつづけて、私は走った」「女流画家が存在するためには、男性の第一線、それ以上の実力ある仕事をつづけねばならぬ。才能も努力も倍加しなければならぬ。尋常ではこの世界で生きぬくことはできぬ。この不平等に向って満身の情熱をそそいで立ちむかった」(『花より花らしく』)

 天井の高い広々としたエントランス・ホールを抜け、雨が美しい波紋を広げる「水路」をガラス越しに眺めながら展示室に入ると、二つの大きな部屋が左右に分れる突き当たりのとっつきに、かの有名な「自画像」がかかっていた。1925年は女子美卒業の翌年だが、春陽会第三回展に女性として初入選した二十歳の自画像、小品ながら一度見たら忘れられない絵だ。

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三岸節子美術館

 自画像を皮切りに、生涯に渡る作品、油彩画約三十点がほぼ年代順にゆったりと掛けられている。98年の開館時には全館を使っての大規模な記念展が開かれたが、今回は通常の常設展である。「月夜の縞馬」「花(黄色)」「小運河の家」「ヴェネチアの海」「アルカディアの赤い屋根」……。私は何度も何度も展示室を回った。透明感あふれる豪奢な色彩の奔流のなかで、胸は熱く燃えながら、心はしんと静まりかえってゆく。

 「あるときは黄色に執着する時期があります。燃えるような朱に熱狂する時代がありました。渋い茶や、そして今は緑の系統にひかれているのです。心をゆすぶりとろかすような色彩を求めて、色から色への遍歴が、静物という実在を通して繰り返されております。やがていつの日かこの絶えざる努力の集積が結実して、埃を浴びている壷にも、枯れた花々にも、皿にも、果物にも、燦々とした太陽の光りを仰ぐように、わたくしの自在な境地が成熟を遂げる日を念じてやみません。ちょうど絵画の上に神の宿り給うごとくに」とは画家四十五歳の言葉(『花こそわが命』)だが、静物も風景も、これはまことに神の宿りしものだ。

 「描く前に私はお祈りをするのよ。守護礼さま、守護礼さま、どうぞ私をお導き下さいとね」

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三岸節子美術館

 国の文化功労者、今年94歳になる世界的な画家は、ビデオテープの中で本当に手を合わせ、声をあげて祈っているのであった。「絵は決してスラスラ描けるものじゃない。でも私は決して絶望に打ちのめされない。絶望があるからこそ、いっそう情熱をかきたてられる。それが尾張の人間なのね」

 後髪をひかれる思いで美術館を出た。降りしきる冷たい雨のなかを少しゆくと滔々たる大河にぶつかった。木曾川である。川の向こうが美濃、こちら側が尾張という。悠然として大いなる流れは、海もそう遠くないことを思わせた。

住 所: 愛知県尾西市小信中島字郷南3147−1  TEL 0586-63-2892
交 通:

JR尾張一宮、名鉄新一宮から名鉄バス起(おこし)行 起工業高校前下車1分

休館日: 月曜日(祝日の場合はその翌日)、祝日の翌日、展示替え期間、年末年始

星瑠璃子(ほし・るりこ)

東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。旅行作家協会会員。著書に『桜楓の百人』など。

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