2002年(平成14年)1月20日号

No.168

銀座一丁目新聞

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追悼録(83)

 正岡子規について書く。「銀座俳句道場」に入会しておきながら一ヶ月もたたないうち退会した女性の同人がいた。一回だけ投稿してきたが、てなれた達者な俳句であった。黒い背景に雪をちらつかせた画像を添付して「これからは短歌に精進したいと思います。せっかくですが、退会させていただきます」とEメールしてきた。道場主の私は「いつでも道場の門をあけておきます。気がむいたらまたどうぞ・・・」と子規の「いくたびも雪の深さを尋ねけり」の句をそえた。背景にちらつく雪に、退会の心のうちを問うたのである。この句を私はきわめて哲学的な句としてとらえた。雪の深さを人間の心の奥と見て、どうしてこんなに早く心変わりをしたのか知りたかったのである。幾度も幾度も、何故かと心の中で考えた。この句は単なる写生ではない。読めば読むほど味がでてくる。子規はこの年の2月ころから腰を痛めて伏っせっており、11月にはさらに胃もおかしくなり、寝たままであった。
 この句は明治29年の冬の作である。「寒山落木」に他の「病中雪 四句」とともにおさめられてある。他の3句は「雪ふるよ障子の穴を見てあれば」「雪の家に寝て居ると思ふばかりにて」「障子明けよ上野の雪を一目見ん」である。村山古郷著「明治大正俳句史話」(角川書店)に村山さんは次のように解説する。
「雪の家に寝ていると思うばかり、天地を静寂に深く降りつつむむ紛々たる大雪、その静けさの中に、もうどれほどの高さに積もったことであろうかと雪景を想像しつつ、幾たびも幾たびも家人に尋ねるのである。『尋ねけり』とさらりとした詠嘆に流しているが、「いくたびも」に切望と憧憬の感動が深く蔵されており、心境句として深い境涯の意味をたたえている」
 そうかもしれない。俳句はその人の置かれた境遇のなかでそれなりに解釈すればよい。作者の深層心理は誰にもわからない。この句を私なりに捉えても間違いとはいえまい。この句はあまり評価されていないようだが、名句である。
 平成14年1月、子規は野球殿堂入りした。明治35年9月19日、34歳で死去してから100年めである。野球の名づけ親で、一高で子規より3年後輩の中馬庚さんがすでに殿堂入りをしてるのを考えれば、遅きに失したといえる。
 辞世の句は「糸瓜咲て痰のつまりし仏哉」」である。仏様はそんなつまらいことで怒りはしないであろう。

(柳 路夫)

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