映画評論家、草壁久四郎さん(8月19日死去、81歳)は世界の映画祭男である。毎日新聞の映画記者のOBであれば、現役時代、映画評で評判を取ったとか、読者が競ってその映画評を読んだという経歴を持つのが普通である。この人はひと味違う。学芸部の時1965年(昭和40年)、45歳でベルリン映画祭の審査員を努めたことから、世界の映画祭にのめりこんでいったふしがある。さらに、西部本社事業部長、毎日映画社社長を歴任したことが映画祭のイベントとしての魅力に取りつかれたようである。
参加した映画祭は75回、ヨーロッパからアジア、中東、南北アメリカ、北極圏までその足跡は及ぶ。スポニチ時代、よく映画関係のパーティーで草壁さんと会った。その席でこんな苦労話を聞いた。
1985年から始まった東京国際映画祭は第一回から「ヘアつき、ノーカット上映」をしている。外国では当たり前の話だ。ところが、日本では外国映画のヘアや性器の露出したシーンはボカシをかけたり、黒塗りにしたりして上映する。そうしなければ、税関を通関できないからである。国際映連の規定では「国際映画祭で上映されるすべての映画は、原型のまま上映されねばならない」とある。いかにして税関と話をつけるか悩んだ。そこで、郷里福岡の先輩、福田幸弘さんに頼んだ。福田さんは元国税局長で、映画通でも知られていた。その紹介で関税局長の矢沢富太郎さんに会ったり、現場の担当者と交渉したりしたが、なかなからちがあかなかった。映画祭開催直前になって文化にきわめて理解のある矢沢局長の決断のおかげで無事解決したという。
草壁さんは、長崎で原爆の体験をしている。西部本社五十年史によると、長崎支局には、支局長、柴田九万彦、支局員、森井俊一、草壁久四郎の三人がいた。草壁は単身赴任の柴田氏局長にかわって支局を住居にしていた。中庭に出て久しぶりに空襲警報の出ていない青空を仰いだ瞬間、目の前が真っ白に光った。「危ない」大声で叫んで、そばの防空壕に飛び込んだ。続いて飛び込んだ新妻の青い顔がドロで汚れていた。草壁久四郎はそっとその顔のドロを自分の手で払ってやった。一ヶ月前に結婚したばかりの、愛妻、智止子の顔である・・・
三人の記者が新型爆弾による長崎の惨状を取材、その記事を本社に一報したことは言うまでもない。この世の地獄をみた被爆体験が草壁さんの人生にさまざな彩りを添えたことはまちがないであろう。
(柳 路夫) |