2001年(平成13年)10月10日号

No.158

銀座一丁目新聞

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花ある風景(72)

 並木 徹

 長島 茂雄さんについて書く。選手としても、監督としても人気は抜群である。この人は観客を大量動員できる力を持っている。長島さんのぬきんでた野球技術を含めた人間的魅力のしからしめるところである。他のプロ野球人の追随を許さない。
 筆者はもともとアンチ巨人であった。ところが、昭和63年、スポニチの社長になってから変った。巨人軍の勝ち、負けでスポニチの駅売りが違ってくる。勝った時には売れ行きが大変よい。そこで、勢い巨人軍を応援することになる。商売上、巨人軍が嫌いだなどとはいえない。話を聞けば、スポニチだけでなくスポーツ紙は巨人軍とともに発展してきたといえる。報知新聞はもとより、日刊スポーツもそうなのである。
 平成3年10月、札幌で開かれた新聞大会で、パネラーになった時、即売と巨人軍の関係を語り、スポニチはけして巨人軍に対する恩は忘れない。いま、サッカーのJリーグに押され気味のプロ野球の発展のための企画も考えていると発言した。
 時代は激変する。昨今は、巨人軍が勝ってもそれほど、即売は売れないという。それだけ、人々の価値観が多様化したのであろう。
 長島さんについてこんな話をきいた。昭和49年10月14日、長島さんが選手として引退した日である。スポニチの巨人軍担当の森本勇(現、事業担当取締役)と町田孟(地方版編集長)の両記者はこの日、背広を着て取材した。他社の記者は普段通りラフな格好であった。長島さんはちゃんと見ていた。背広を着て取材した二人の記者の気持ちがわかったのである。記者会見の前に、もと巨人軍担当だった荒井良徳(元常務取締役)に「今日は有難うございました。森本さんと町田さんににもお礼を言っておいてください」と挨拶したのである。
 この話をきいて長島さんが好きになった。劇作家の寺山修司さん(故人)が「僕の戦後が終わった」と長島引退の感想を漏らしたのもけして大げさではない。
 長島さんはファンを大事にした。それは自分に寄せるファンの並々ならぬ愛情を感じ、それを人一倍うけとめたたからではないだろうか。時に、彼の采配が人の意表をつくときがある。ひらめきともとれるが、明らかにセオリーを無視している。ファンを喜ばそうという気持ちがその采配の根底にあったのではないかと、いまになって気が付く。

 スポニチのOBの深見喜久男さんがその著「スポーツ記者が泣いた日」で表現する。「スポーツ界には『記録を残す選手』と『記憶に残る選手』とがいる。長島は明らかに後者だった」。選手として17年、監督として15年。常に『長島現象』を巻き起こしてきた。このような人物が存在するというだけでも、この世は素晴らしいとつくづく思う。

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