星瑠璃子さんの「小さな美術館への旅」(二玄社刊)がじわりじわりと売れているようだ。本の中に紹介されている美術館に「この本を見てきました」という入場者が少なくないという。読めば読むほど、新たな刺激を受け、さまざまな想像力がわく。
17歳の木田金次郎が35歳の有島武郎が出合ったのは1910年(明治43年)。その13年後に有島は婦人雑誌の記者、波多野秋子と軽井沢で心中する(1923年6月9日)。木田の運命を変えたのは、有島であった。東京へ出て絵を学びたいと言う木田に、北海道にいてその土地の自然と人とを忠実に熱心に眺めなさいと勧めたのは、有島であった。だからこそ、木田の絵が生まれた。星さんは記す。「ただ自然を描くと言うのではなく、自然のなかに分け入り、自然の中に身をすえて、どこまでが自然だがどこまでが自分だがわからないように一体となって、自然の奥にあるものを描いた」これは哲学である。このような境地になりたいものである。木田は有島の言葉をただひとつのよりどころとして一生を岩内で描く。有島も木田から影響をうけた。有名な小説「生まれ出づる悩み」は木田がモデルであった。文学、芸術は年齢差に関係なくお互いにたかめあうことができる。
歴史に「もし…」は許されないが、二人の交友がながく続いておれば、両者はもっと多くの、すぐれた作品を世におくりだしたであろう。
当時の新聞を見ると、心中した女性の名前はふせられている。岩谷大四著「物語大正文壇史」によると、二人が知り合ったのは1922年(大正11年)の秋。秋子は作曲家、山田耕筰が「あの目に射すくめられたら大抵の男は参っちまうだろう」といったほどの妖艶な女であった。有島には三人の子供がいた。妻は大正5年8月になくし、ひとり身であった。秋子には夫がおり、不倫であった。
このころ、有島は生活のうえでも、文学の上でも行き詰まりを感じて虚無的になっていた。秋子の情愛に溺れ、死を覚悟した。「人生に未練は無いが、大自然には未練が残る」との言葉を残している。
渡辺淳一著「失楽園」の二人は同じ軽井沢で全裸で抱き合ったまま青酸カリで心中する。有島と秋子は縊死する。発見されたのは一ヶ月あとで無残な姿であった。「たった一度の生だから、この人を永遠に自分の中にとどめておきたい」という情死の気持ちはわからないでもないが、木田が有島に送った手紙を読んでみるがいい。「山ハ絵具ヲドッシリ付ケテ、山ガ地上カラ空ヘモレアガッテイルヨウニ描イテ見タイモノダト思ッテイマス」とある。木田少年の生命あふれる絵心に共感する。木田は有島の死後、魚師を辞め食うや食わずの絵筆一本の生活にはいる。そこから、疾走する奔放な線と輝くばかりの色彩が誕生した。死せる有島、木田を大成させたといってもいいかもしれない。
(柳 路夫) |