2001年(平成13年)8月20日号

No.153

銀座一丁目新聞

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花ある風景(67)

 並木 徹

 大東亜戦争中の昭和18年4月18日、ブーゲンビル島上空で、山本五十六連合艦隊司令長官の搭乗機を邀撃、撃墜した米戦闘機パイロット、レックス・バーバーさん(当時、中尉・退役空軍大佐)が7月26日84歳でなくなった。この記事に関連して、朝日新聞(7月28日夕刊)は長官機を護衛した零戦のパイロットだった柳谷謙治さん(82)が「家族思いの方だった」と山本長官の死を悼んだと伝えていた。
 長官機を護衛したのは海軍204航空隊で、森崎武中尉を隊長とする零戦6機であった。アメリカ側は日本の暗号を解読しており、5日間にわたる山本大将の巡察日程をすべて知っていた。護衛機に責任はない。しかし、周囲の目は厳しかった。柳谷さんを除く五人は、死地を求めるようにつぎつぎと戦死した。その中には個人で撃墜した敵機70機、共同撃墜機40機という「撃墜王」もいた。護衛に失敗した隊長の森崎中尉は母親への便りに「腹を切って詫びたい思いである」と書いたほどであった。
 柳谷さんはその年の5月13日、僚機70機とともに、ガダルカナル島の手前のルッセル島の米軍飛行場を攻撃した際、空戦で右手首切断の重傷を負い、内地へ送還された。海軍病院を退院後、右手に義手をつけて、操縦学生の教育に当たり敗戦を迎えた。
 いまなお健在の柳谷さんの碑が生まれ故郷の北海道美深町の公園の一角にたっている。この碑は同地に住む陸士59期生の山崎幸一君(兵科、鉄道)が柳谷さんの軍人としての行き方に感動して私費を投じて建設したものである。碑銘は源田実海軍大佐が書いた。「不滅の零戦魂、柳谷謙治の碑」。碑文は作家の吉村昭さんが記した。「山本長官戦死という重要な戦史の唯一の証言者である柳谷氏は多くの貴重なものを私たちに伝えてくれている」とある。同期生の中にこのような奇特な人がいることは嬉しい限りである。
 なお、朝日新聞夕刊が「空軍記録では別の戦闘機による命中弾もあったとして単独説をとっていない」と伝えている。記録によれば、攻撃隊は4機で、一番機ランフィア大尉、二番機が亡くなったバーバー中尉、三番機、ホルムズ中尉、四番機、ハイン中尉であった。あとの12機は直掩機である。一番機が山本機を撃墜したととして、ランフィア大尉がその功により海軍十字章を授けられているとある。

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