最近、社会部のころの事を妙に思いだす。暑さのせいか、年のせいか。藤野好太朗という名文記者がいた。どんな現場へ出されても、見事な名文をものにした。同じ年、お互いに酒が飲めないということもあって、何故か気があい、一緒に仕事する機会が多かった。初めての仕事は官僚の実態をえぐる連載企画『官僚ニッポン』(昭和31年9月28日から10月31日まで連載)であった。
連載をはじめると、話題を呼び、各省庁ではいつ槍玉にあげられるかビクビクする有様であった。この企画で菊地寛賞を頂き喜びをわかちあった。実際のところ、何度も、記事が書けなくて悩んだ。そのつど、藤野君に平野勇夫記者を加えて三人でコーヒーを飲みながら議論をし、表現、筋、ひねり方などいろいろ工夫した。文章と言うものは何度も壁にぶちあたるものである。このコーヒーの会議は有効であった。私はいつも書き出しに苦労した。
次が皇太子お后取材である。毎日新聞百年史(1872−1972)は言論報道編に『皇太子妃報道に完勝』の章を設ける。
八年にわたる『皇太子妃報道合戦』に終止符をうったのは昭和33年11月27日の宮内庁発表であった。時に午前11時30分、本社の特別夕刊8ページ号外は同時刻全国一斉に配達を開始した。もちろん他紙も号外を出した。朝日が2ページ、読売が半ページの号外であった。量、質とも他紙を圧倒した。藤野記者(百年史にはF記者としてある)は青年皇太子の恋を名文で綴った。百年史に紹介されている。『淡々と抑制して、ロマンスを暖かく美しく書き上げたすばらしい文章』とある。
筆者の担当は適齢期の娘さんのいる旧華族の家をまわり、家族環境、資産、天皇家に対する意見などを取材、候補者しぼりをすることであたった。
ふたりとも、あいついで、警視庁記者クラブのキャプを勤めたあと、社会部デスクになった。42年1月から政治腐敗を追及する連載企画『この黒い霧を払え』を担当した。私が鬼軍曹Aで、藤野君が鬼軍曹Bであった。
社会部が政治へメスをいれるのはこれがはじめてである。実は31年10月、『官僚ニッポン』が終わった段階で次の企画は「政治もの」ときめていた。というのは取材した役人たちが『私たちも悪いが、政治家はもっと悪い』と口をそろえていたからだ。政治部と合同の会議を開いて企画について話し合いをしたが、かみ合わなかった。政治部の言い分は『政治にはお金はつきものだ。50万、100万は金のうちに入らない』という。金銭感覚が全く違うのである。協力が得られないと言うので、この時は企画が見送られた。
10年たって、一連の政界の不祥事が起きて、時節がきた。社会部員とともに徹底的に取材し、キャンペーンを張った。取材中「社会部紅衛兵」と政治家から嫌がられた。キャンペーンは成功し、新聞協会賞も頂いたが、42年1月29日の総選挙の結果、黒い霧といわれた政治家たちはゆうゆう当選した。日本の民主主義というものはこの程度である。百年史は書く。「黒い霧はまだ晴れなかった。『黒い霧』というキャッチフレーズそのものが甘かった」。筆者が出した案は『この金権の司祭者たち』であった。
藤野君はその後、筑波大学の先生となり、学生に好かれ、その講義は面白く、いつも教室は学生が外まであふれでていたという。好事魔多し、昭和60年7月、享年60歳で亡くなった。
(柳 路夫) |