2001年(平成13年)8月10日号

No.152

銀座一丁目新聞

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お耳を拝借(21)

-友情の絆(きずな)

芹澤 かずこ

 

 21年前の8月、北海道の日高山脈で友人が転落死しました。事故は天候の悪化による予定変更の下山の途中であり、6、7人のパーティで犠牲者は“彼女”ひとりでした。高校時代の仲良しグループはみな結婚して専業主婦になっていましたが、彼女は独身を通して仕事を続ける傍ら、山岳会に入って山歩きを楽しんでいました。
 当時、3人の子育ても終り、夫のアシスタントとして講演旅行の供などしていた私は、なかなか友人に会う機会を持てず、彼女とも年賀状だけの付き合いが長く続いていました。最後になった1980年の年賀状は、茶目っ気たっぷりの彼女らしく、岩肌にしがみついた猿のようなポーズで笑っているものでした。そして8月、“申年“は“去る年”になって私たちの前から姿を消してしまったのです。
 山に行く前の日に電話をしたという友人の話によると、リュックを少し大きめの新しいものに変えた、と言っていたそうで、もしかしたらその新しいリュックが、いつもの感覚と違って災いしたのかも知れません。
 学生時代の彼女は、いつもグループの中心にいて、ひょうきんな事を言ってはよく皆を笑わせていました。歌舞伎が好きで「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」と言ったあの歌舞伎特有の読み方など得意げに聞かせてくれました。また高田浩吉の大ファンで、見逃した映画を追いかけて浅草まで行くのに付き合ったこともあります。
 「おばあちゃん」というのが彼女のニックネームでしたが、どうしてそう呼んでいたのか定かではありません。
 「貴女たちがおばあちゃん、おばあちゃん、と呼ぶから早くおばあちゃんになって先へ逝ってしまったのよ・・・」
 と葬儀の日に担任の先生に言われました。
 葬儀のあと山岳仲間が彼女を偲んで追悼の文章を編みましたが、その中には私たちの知らない、もうひとつの彼女の姿が生き生きとありました。
 あれから毎年、命日の8月19日に渋谷のハチ公前に集って墓参は続けられています。その年、都合のつく人が集まるので、毎年同じ顔ぶれになるとは限りません。私も長い間には夫が病気だったり、仕事や旅行と重なったりして何回か抜けています。
 この日は不思議と雨が降らないのです。墓参の後は銀座や新宿や渋谷で、ちょっとだけ贅沢な昼食をして、ご無沙汰をしている間の話に花を咲かせます。なにしろ21年の歴史がありますから話題に事欠くことはありません。当初は子供の進学に始まって、就職、 結婚、孫の誕生、夫の定年、海外旅行と少しずつのズレはあっても同じような道程を経て、最近は専ら健康の話題が多くなりました。
 中には今でもまだ姑に仕えている忍耐強い人もいれば、既に見送って身軽になった人もいます。私と同じく夫との死別を乗り越えて、ようやく元気を取り戻した人もいて、島倉千代子の歌ではありませんが、人生いろいろです。
 女の友情は育ち難いとよく言われますが、“彼女”がいつでも“真中”に存在する限り、この絆は営々と続いてゆくだろうと思います。
 今年の6月、このグループの何人かと北海道に出掛けました。私にとっては修学旅行以来46年ぶりの一緒の旅でしたが、毎年8月に顔を合わせているせいか、ブランクは微塵も感じず、学生時代に戻ったように良く笑い、よく食べ、よく喋った楽しい旅になりました。日高を望みながらバスで移行する折、彼女のお墓は魚藍坂にあるけれど、彼女の魂は今でも日高周辺に遊んでいるように思えてなりませんでした。

挿絵:野地 画伯



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