2001年(平成13年)8月1日号

No.151

銀座一丁目新聞

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お耳を拝借(20)

-海が苦手

芹澤 かずこ

 

 水を見たら飛び込みたくなるほど、泳ぎが大好きな人がいる。
 元みなと座の主宰・西舘好子さんである。子供の頃、小名浜に疎開したときに土地のワンパクどもに背中を押されて海に落ち、必死にもがいて会得した泳ぎとのこと。それからはすっかり浜ッ子の仲間入りをして、沖に停泊している外国船の丸窓から異国の様子を覗き見したり、夜の海に浮かんで星空を眺めたり、真っ黒になって一日中海で過ごした、と思い出を綴った著書「小名浜ものがたり」にもある。
 他界した夫も、他のスポーツは殆どしないのに水泳だけは得意だった。やはり子供の頃、兄やその友達の仲間に入りたい一心で、沼津の御成橋の欄干から、目をつぶって狩野川に飛び込んで泳ぎを覚えたと聞いた。
 私も子供のころ静岡へ疎開をしたが、河原ばかりが広い水底の浅い川だったので、水遊びをした程度にすぎない。東京に戻ってからも焼け跡の校舎では水泳の指導もなく、泳ぎを知らぬまま大きくなった。
 小学校の高学年の時に、新潟県の柿崎という所でひと夏を過ごしたことがある。疎開をしたまま、土地に住み着いてしまった叔父の家である。柿崎は日本海に面していて、遠浅ではなく、すり鉢型の海で、海水浴には不向きな所だった。
 風のない日でも海は荒く、波打ち際に立っていても足を踏ん張っていないと、ズズィとさらわれる。風のある日は波が2、3メートルにも高くなり、まるで襲いかかるように寄せてくる。
 従兄弟たちは高い波も物とはせず、波をくぐり抜けて遊んでいたし、海軍にいた叔父はさすがに泳ぎは達者で、手製のヤリで海に潜っては魚を取っていた。
 臆病な私は、荒い海に入って行く勇気がなく、叔父が海軍から持ち帰った浮き袋をしっかりと抱え込んで、波打ち際でバシャバシャやっていた。だから、ひと夏、真っ黒に日焼けして海辺で過ごしたにも関わらず、とうとう泳ぎは覚えずに東京に戻った。
 
 子供の手が離れてから一念発起して、都の初心者を対象にした水泳教室に通い始めた。まるで幼児の指導さながら顔を水に浸けるところから始めて、水中で目が開けられるようになると、次は吸い込んだ息を小出しにする練習。プールの淵につかまって言われたとおり少しずつ息を吐いていると、自然と体が浮き上がった。
 「わっ、やった!」
 初めて体が浮いた時、嬉しくて思わず叫んでしまった。それまでは子供のように体で覚えるのではなく、どうしても理屈が先行して上手く行かなかったのだ。この感覚さえ会得すればあとは練習次第。
 と、何事もうまく行けば苦労はないのだが、若い先生に
 「フォームがとても綺麗」
 だとか煽てられながら、どうやらこうやら泳ぎらしきものは身についた。けれど、常に足が立つ安心なプールでしか泳がなかったので、
 「海では怖くて泳げない」
 と言って何のために泳ぎを習ったのかと、夫によく笑われた。子供の頃の、足をすくわれるような、あの日本海での体験が、海を苦手にしているのかもしれない。しかし、海で溺れかけて泳ぎを会得したと言う人も多いから、もともと海が苦手なのかも。



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