2001年(平成13年)8月1日号

No.151

銀座一丁目新聞

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花ある風景(65)

 並木 徹

 「陸軍へんこつ隊長物語」(毎日新聞刊)の著者、後藤 四郎さんが、地元長崎新聞にとりあげられた。「バスの中の親切 うれしかったよ…」と大きく顔写真まで掲載されている。
 「長崎新聞」(7月11日)によると、6月下旬、後藤さんがひざなど足腰の鍛錬のため毎日訪れているゴルフ練習場からのバスの中で乗り合わせた同市立式見小学校(藤原 潤一郎校長)の6人の児童が後藤さんに席を譲った。自宅近くのバス停で降りる時も抱えている荷物を運ぶなどした。感激した後藤さんが全校児童と教職員に、真空パック入りのカステラ240個を贈ったというのである。
 後藤さんは「子供たちにかかわる事件や暗いニュースが多い。子供たちに『善いことをしたんだよ』としっかり印象づけたいと思い、感謝の気持ちとして贈った」と語ったとある。
 後藤さんは右足が不自由である。昭和15年5月、満ソ国境の虎頭から第13師団の歩兵58連隊の連隊砲中隊長へ転任した。中支の宜昌戦線にいること一年。昭和16年7月、大隊長として戦闘中、右ひざ関節に盲貫銃創を受け、内地へ護送された。この時受けた傷のためである。
 陸士41期の後藤さんの軍人生活は波乱万丈である。この期は卒業2年後の昭和6年に満州事変が起きた時に小隊長、支那事変初期は中隊長、大東亜戦争開戦時は大隊長、終戦時には連隊長であった(桑原 嶽著「市ヶ谷台に学んだ人々」)。
 後藤さんは10月事件に連座、要注意将校リストに記載され、昭和8年11月、満州に飛ばされた。3年後の2・26事件でも何もしていないのに、重謹慎一ヶ月を食らった。さらに、二期進級停止、内地には帰還を許されざる身分の処分までうけた。同期生では3人が事件に参加、処刑されている。
 後藤さんと「小さい親切」とは関係がある。昭和14年2月の事だからいまから60余年も前のことである。この「小さい親切のすすめ」で関東軍一のもてあましの不良中隊を見事、立派な中隊に立ち直らせたのである。一日一善を兵隊に説いた。そして、各小隊からあつめた「小さな親切」を兵隊に読んで聞かせた。
 たとえば、「班長のかみをつんであげた」「自分はぬるま湯が好きなのに熱い湯を出したので、ぶん殴ってやろうかと思ったが我慢した」といった誰でもできるささやかな善行ばかりである。
 後藤さんは「これならできるであろう」ということで、「これなら」教育と称した。この他の、型破りの改善策で、不良中隊の雰囲気は明るくなり、やる意欲も出てきた。銃剣術、射撃、内務成績で表彰をとるまでになった。
 子供たちを褒める後藤さんの気持ちはよくわかる。カステラを全校児童にくばるあたり、後藤へんこつ隊長の面目躍如たるものがある。94歳、まだまだ若い。

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