「哈爾濱学院史」に、父 牧内 定男の名前がある。同学院の配属将校 内田 与助(陸士20期)が外務大臣(当時外務省の管轄で運営)宛ての報告書に記されている。それによる「配属将校の外教練教師として予備役歩兵大尉 牧内 定男あり 教授力に不足なし」とある。
父 定男はハルピン学院の生徒監として昭和8年4月から国立大学となる直前の昭和14年3月まで勤務した。この間ハルピン中学でも教練を教えた。
昭和8年4月というのは日露協会学校からハルピン学院と名称が変り学生数も一学年60名に増員された年である。
父は少尉候補の4期(大正13年11月陸士卒)で、当時大阪歩兵八連隊に勤務していた。小学校1年生の私は「何故そんな遠い満州までいかねばならないのか」と疑問に思った。いま考えてみると、私をふくめて7人の男ばかりの兄弟がいたから陸軍大尉の月給では生活が苦しく、仕方なく現役を退く決心をしたのであろうと思う。「歩兵第八連隊史」には父の後輩の少尉候補5期、7期の将校が終戦時まで活躍されたことが書かれている。
私はハルピン小学校(のちに桃山、花園にわかれる)の2年に転入学した。ハルピンには中学の一年生(哈中四回生)までいた。
小学校の5、6年をどこで過ごすかでその人の人格形成が決まるという。多分に私の、のんびりとして、粘り強い性格は大陸の風土が育ててくれたものであろう。異国情緒いっぱいの都市であった。中央寺院を中心に放射状の道路、ポプラ並木など景色が素晴らしく、今でも心に残っている。白系ロシア人、韓国人、中国人もいる。このようなところで過ごすと、人種差別もおきないし、言葉のコンプレックスも感じない。
悪いこともした。中国人の畑からキウリを盗み、食べて腹をこわしてしまった。おかげで母親からきびしく叱られた。家は学院内の赤レンガの官舎で、ペチカが珍しかった。出来たばかりのラグビー部の学生から運動場でパスのやり方を教わった記憶もある。私のラグビー好きはこんなところからきているのかもしれない。次男卓兄(昭和29年7月7日死去)が学院の18回生(昭和15年3月卒)であった。そんなこともあって、学院にはきわめて関心が強い。
終戦時の学院の院長は父と一緒に働いた内田中佐と同期生の渋谷 三郎大佐であった。渋谷さんは2・26事件直前の昭和10年12月の異動で歩兵第3連隊長に着任した。このため事件の責任をとらされ、予備役となった。このあと、満州に新天地を求め、牡丹江省長、治安部次長などを経て学院長となった。ソ連軍の進駐をまえにして昭和20年8月21日、夫人文子さん、次男 泰君(15歳・ハルピン中学4年)とともにピストルで自決した。泰君の遺書には「七生報国」とあった。今の若者にはこの気持ちはわかるまい。
父 定男は北京、京城で同じような仕事をしたあと、終戦直前、引き揚げてきた。すぐ故郷の長野に帰り、私のすぐ上の兄、誠夫婦と農業をはじめた。その転換は早かった。10年ほど寝たっきりであったが、昭和53年1月14日老衰のため89歳でこの世を去った。
(柳 路夫) |