横浜の町に、何処からともなくキンモクセイの匂いが漂っていて、秋の空気を肌に感じます。
ところで、いきなりですが、睡眠中に見る夢に匂いはあるでしょうか。
夢で出会う人の体温を感じることがあります。夢で会うBちゃんの体温はいつ会っても一定の感覚だったり、とても懐かしい感じがしたりします。で、つい最近、ふと、Bちゃんの腕をつかんでみたのですが、その時に、匂いがしたのです。夢の中の匂いが感覚にしっかり残っているのは初めてで、夢の中での感覚と認識しているにもかかわらず、どこかで現実の出来事として捉えてしまっている自分がいます。
中国の寓話「胡蝶の夢」では、荘子が“夢の中で自分が蝶になってひらひら舞っていて、いったい自分が蝶になったのか、蝶が自分になったのか”と、夢と現、生と死の区別がつかない境地を例えています。
先日、夢の中で、仕事の電話をしました。その後、現実で、その仕事先に「この前、電話しましたよね」と言ってから、はっとしました。電話したつもりでしたが、少しうろ覚えだったので、相手に「してませんよ」と返答されて、“夢と現実の境界”の今後の対処法をまじめに考えてみたりしました。
スイスの精神医学者ユングは、“夢は、意識と無意識の相互作用として形成される”と言ったそうですが、自己の意識と無意識の境界が明白でないと、相互作用は成立しないような気がします。
この前、夢の中で、どうしても悲しくて泣きそうになって、意識的に目を覚ましたことがありました。目尻から涙の粒が流れていて、そのうちしっかり覚醒したら涙も止むだろうと思っていたのですが、止まらなくて、夢の中の出来事が、今ここで起きた出来事として意識下に残ってしまい、気持ちが反復してしまい、やっぱり悲しくてどうしようもなくて、涙ナミダ涙・・・嗚咽ヒックヒック。これはもう、夢も現も意識も無意識も区別がつけ切れる状態ではない感じです。
平安時代の歌で、「夢にだにあふことかたくなり行くは 我やいをねぬ人や忘るる」というのがあって、これは、“あなたが私を忘れずに思ってくれるなら、夢に見えるはず”と、恋しい人の心離れを嘆いています。ふつうなら、私の想いがつのった結果あなたを夢に見る、と考えるところですが、古代の日本では、想いをつのらせた方がその相手の夢の中へ出向いて行く、ということだったのです。あなたが宙を舞って私の夢までやって来るのは、私を想ってるから。なんとまあ、素敵なことでしょう!夢、現、意識、無意識が一粒にぶつかり合う瞬間もきっとどこかに在るみたいです。
そのうち、自分の夢と相手の夢がつながる時代が来たら、もっと素敵なのに!
「ほら、夢の中で電話したじゃない」と言ったら、相手も「ああ、そうだったね」なんて、言ってくれるかもしれません。なんだかとても楽しそうでたまりません。
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