2000年(平成12年)6月10日号

No.110

銀座一丁目新聞

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追悼録(25)

 東京電力のPR誌グラフ「TEPCO](6月号)が「名作の散歩道」に太宰 治を取り上げている。6月19日は「櫻桃忌」。いまでも若い人たちに人気があり、櫻桃忌には1000人以上の人たちが三鷹の禅林寺に墓参に訪れる。太宰 治は昭和23年6月13日、愛人の山崎 富栄さんとともに玉川上水に入水、心中をとげた。死体が見つかったのは19日であった。

 当時、太宰は朝日新聞に小説「グットバイ」を連載中で、原稿を取りにいった学芸部の記者が事件を知り、特だねにしたという記憶が残っている。また、「週間朝日」は山崎 富栄さんの日記を全面掲載、大きな反響をよんだ。

 太宰について、弘前高校(旧制)で1年先輩であった毎日新聞の社長・会長をつとめた平岡 敏男さん(故人)がその著書の中で面白いエピソードを紹介している。

 太宰は高校時代、フランス語を勉強しなかったのに東大文学部フランス文学科にはいった。志望した理由のひとつは東大仏文科という肩書きがイキだというのである。もひとつは仏文科は志望者が定員不足で無試験であった。弘前高校から太宰ともうひとり仏文科を狙ったが、昭和5年という年にフランス語の試験があった。二人は試験場で手をあげて試験官だった仏文科の主任教授辰野 隆博士(故人)に正直に事情を話した。この一風変わったイキな教授は苦笑したものの格別な配慮で二人の入学を認めたという(「毎日新聞 私の50年」より)

 このPR誌が心にくいのは太宰の墓の斜め向いに森 鴎外の墓があると説明とともに写真つきで紹介している点である。三鷹に住んで創作活動をしていた太宰は近くの禅林寺に眠る森 鴎外を尊敬していたからだ。そのことを小説にも書いている。太宰文学を知る人であれば、太宰の墓に花をささげたあと、鴎外の墓にも手を合わせても何も不思議はないであろう。太宰がこの世を去って52年。いまなお太宰が語られるのは嬉しい限りである。

(柳 路夫)

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