2000年(平成12年)5月10日号

No.107

銀座一丁目新聞

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追悼録(22)

 

本棚を整理していたら「武原はん舞の会」(国際ソロプチミスト北九州15周年記念チャリテー公演)のプログラムがでてきた。昭和62年3月8日(日)午後2時から北九州市厚生年金会館で開かれたもの。今から13年前だが、はんさんの地唄舞を鮮烈に覚えている。

出し物は一 地唄 雪 一 地唄おどし物 荒れ鼠 一 地唄 袖の露であった。

「雪」には圧倒された。唄 三弦は人間国宝 富山 清琴さん。はんさんの踊りの集中力、間、リズム絶妙というほかない。ゆっくりした所作、次ぎへ移る間、はんさんは微動だにしない。その集中力。もっとテンポの速い踊りを想像していた私は舞台にすいこまれた。

解説によると、大阪南地の芸者りせき(李石)という女が恋する男に捨てられて、出家して尼になり孤独の中にも今は悟りを開いて昔の思い出にふけるというのがこの曲の内容とある。

尼さんにしてははんさんはあまりにも艶であり、弱き女心をしみじみと表現していた。「雪」ははんさんの独自の雪として代表的な舞であった。

 それから,数日後,友人とゴルフをする機会があった。はじめて88のスコアを出した。ひとえにはんさんのお陰であった。あの踊りの集中力、間、リズムはゴルフの極意であると悟ったのである。しかし、その後がうまくいかなかった。もとのゴルフに戻ってしまった。はんさんのあの鮮烈な舞のイメージは一週間ぐらいしか私の頭の中に残らなかったのである。はんさんは自宅の稽古場で毎朝5時から一時間踊りの稽古をするのをかかさないという。はんさんはたゆまない精進をしていたのである。そのうわべだけをみて真似てもものになるわけがない。だが、悟りを開かしてくれただけでもはんさんには感謝しなくてはなるまい。

このプログラムには「舞うことが私のいのち」としるし、『白寿まで一陽来福舞いゆかな』と詠んでいる。

そのはんさんは平成10年2月5日、白寿を前にして95歳でこの世と別れを告げた。(柳 路夫)

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