2000年(平成12年)2月20日号

No.99

銀座一丁目新聞

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コソボ便り(4)

中村 恭一

 こんなにすばらしいアルバニア系の人たちを見ていると、なぜセルビア人に対する復讐が後を絶たないのか不思議ですが、40年間にわたる共産主義体制と10年に及ぶアパルトヘイトにも似た弾圧差別政策、そしてなによりもこの1年半のセルビア兵士や警察による残虐行為の数々が多くのアルバニア系の人々を異常に屈折させてしまったのは間違いありません。目の前で母親が陵辱されるのを見せ付けられた少年や少女、救いの手も声も出せないまま恋人が連れ去られていくのを唇をかみしめながらただ見守るほかなかった青年男女、娘とその胎児まで引き裂かれたと、きかされた年配夫婦。セルビア人に報復の手を下す多くの犯人たちは若者が多いのですが、地獄の淵をのぞいた魂の慟哭が凶悪な報復犯行に駆り立てるのでしょう。

 実はこちらにくる前に書き上げた小説でボスニアでのモスレムがセルビア人に対して復讐心を抱かないことの疑問から逆説的にセルビア人にレイプされた若い女性たちがひそかに報復のための秘密結社を作っていることを想定したのですが、コソボでは、その秘密結社にも似た組織による報復攻撃が現実に展開されているとみられています。羊のように温和で、多民族社会の可能性を信ずるボスニアのモスレムに比べ、コソボのアルバニア系モスレムの多くにとっては多民族社会、少なくともセルビア人との共存は外国人による押し付けとしか映らないようです。この激しさが果敢にゲリラ戦に挑み、ついにはNATOの援護も獲得してセルビア軍をおいだすことになったのでしよう。

 最近、国連事務総長特命の調査委員会がボスニアにおける特に7千人以上がいまだ行方不明とされている95年7月のスプレニッツアの悲劇をもたらした国連当事者の責任を問う報告を出しました。(続いてルワンダ報告もでました)事務総長、PKO担当事務次長、及び現場での責任者であった事務総長特別代表という国連幹部らについにきびしい責任追及の矢が向けられたのです。私の15年の国連との付き合いで常に心の中で鉛のように重くのしかかっていたものは国際官僚社会の無責任さに対する怒りです。これを書きとめたいと思って、一度ならず小説の形を借りる試みをしたりもしました。自らの責任を恐れるがゆえに決断を避ける国連の無責任さを問う私の思いは今回の調査委員会によるボスニア報告でやっと救いを得た感じです。

 1999年は人権が国連を超えた年、つまり人権上の干渉が国家主権にも優先することが認められた年などといわれていますが、国連活動の人道的失敗の責任も問われた年として、国連の歴史に特記されるべき年になりました。実はコソボ赴任の要請があったとき、国連活動の責任と無責任とを現場で確認したい気持ちから引き受けたともいえるのですが、実は国境なき医師団の創設者の一人であったベルナール・クッシュネルというフランス人のUNMIK特別代表は国連官僚とは対極にある人物で、私の国連生活の最後となりそうな現場で、初めて自らの責任で行動する人に率いられた国連ならではの活動に参加できたという思いです。これが15年間の焦慮を一掃出来る機会ともなれば、私にとっては誠に幸いといえるでしょう。



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