2015年(平成27年)1月20日号

No.633

銀座一丁目新聞

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追悼録(549)

二宮尊徳に傾倒した井上成一君

 二宮尊徳に傾倒した同期生の井上成一君が亡くなった(昨年11月1日)彼を知ったのは平成17年11月7日であった。彼の案内で同期生30名(夫人3名)とともに二宮尊徳(幼名金次郎)が生まれた小田原市栢山付近の自然に触れ、記念館を見学した。この時、驚いたのは彼の自宅の庭に尊徳の石像が二基もあったことだ。戦前、小学校の校庭には薪を背負い四書五経の「大学」を読んでいる金次郎の石像があった。井上君を知ってから機会を見て二宮尊徳についていろいろ調べた。彼の二宮尊徳「円心円構造理論」はともかくとして、宇野精一さんが「尊徳の思想と功業の基礎はこの大学にある」というのはよくわかった。この日、如意山善栄寺にある尊徳の墓にも井上君が用意した線香を供えお参りをしたが、村に伝わる二宮家の村人への温かな思いやりを知った。近くを流れる酒匂川(さかわかわ)が寛政3年(1791年)8月関東一帯を襲った大暴風雨で堤防が決壊、二宮家も大きな被害を受けたのに、「栢山の善人」といわれた父・利右衛門は困窮者に金品を施したり証文や質草を取らずに金を貸したりしたと伝えられている。尊徳は伯父二宮万兵衛から農業を徹底して教えられる。明かりをつけて勉強する金次郎は「灯油は高価なものだぞ」と伯父から読書を止められて考え出す。友人より一握り(0.1リットル)の油菜の種をかりてその種をまき、翌年15リットルの収穫を得て、灯油と交換する。さらに捨苗を拾い集めて荒地に植えて1俵の米を得る。ここから「積少為大」の哲理を知る。

 この時、井上成一君から「二宮仕法」を聞いた。文政5年、藩命により栃木県二宮町(旧桜町)の4000石の復興のために働いた話である。「調査・計画」(資金の源泉)「勤労」(収益)「分度」(経費・利益)「推譲」(資金の分配)だという。金次郎が調べではここ10年間の平均実収が962俵と畑方の小物成りが130両である。そこで10年間はこれ以上の年貢を求めないと約束させて復興に取り掛かった。復興まで「勤労」「分度」。紆余曲折があった。天保2年10年の仕法が終わる。余剰米420俵を収める。年貢は2千俵に倍増された。藩主から「以徳報徳」の賞詞をいただく。尊徳の「報徳」の精神はこのときから広まったといわれる。 天保4年の夏、宇都宮で昼食のおかずに出された茄子の味が旬に関わらず秋茄子の味がした。「この秋から来年にかけて必ず飢饉が来る」として凶年でも実る粟、稗の種をまくなど対策を立てた。予想通り奥羽、関東一円は凶作に見舞われた。櫻町では餓死者は一人も出さなかった。救援食糧を近村の村々へ送り多くの人命を救った。安政3年、永眠、享年70歳。井上成一君は享年88歳であった。ご冥福をお祈りする。


(柳 路夫)