2015年(平成27年)1月20日号

No.633

銀座一丁目新聞

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花ある風景(548)

 

並木 徹

 

山下奉文大将「イエスかノウか」の虚説 

 友人の霜田昭治君に薦められてドナルド・キーン著「日本人の戦争」−作家の日記を読む―(角地幸男訳・文芸春秋)を興味深く読んだ。作家の日記を取り上げたアイデアは鋭い。戦争に協力した作家の日記をきびしく論評する。ただ一ヶ所、首をかしげざるを得ないところがあった。

 第2章の『大東亜の誕生』の中で記述されている山下奉文大将(陸士18期)の箇所である。筆者は書く。「当時、複写されて広く、出回った報道写真に山下奉文大将がシンガポールの英国軍司令官パーシヴァル中将に対して『イエスかノウか』と居丈高に降伏の最後通牒を突き付けている写真がある」。この「居丈高」の表現が事実と違う。確かに当時はそのように宣伝もされた。筆者が言うように「この写真は、西洋で教育を受けた日本の知識人の間さへ、なんら当惑の種とはならなかった。それどころか一世紀にわたる西洋への屈従の後に、今や日本人が優位に立ったことの紛れもない証として賞賛された」などは事実である。

 シンガポールで降伏交渉が行われたのは昭和17年2月15日である。私は中学校4年生であった。大連に居た。山下中将が率いる第25軍がマレー半島1千キロを快進撃してシンガポールを攻略したニュースに胸をおどろかせた。
だが筆者が言う「同時のこの写真は日本人が日清日露の戦争で敗軍の将を遇するに見せた礼儀をもはやもはや守るつもりはないことを示した」は明らかに誤解である。別の文献伊藤正徳著「帝国陸軍の最後」進攻編にもドナルド・キーンと同じような趣旨の表現がある。だが事実と異なる。

 降伏交渉の場所はブキテマ高地のフオードの自動車工場。通訳は菱刈報道班員であった(菱刈隆大将−陸士5期−の息子さん)。残念ながら軍事用語に暗く、なかなか意志疎通がうまくいかなかった。そこで山下中将が「きみイエスかノウかを聞くだけでいいんだ」と半ば叱責した。これではらちあかないとみて、同席した情報参謀・杉田一次中佐(陸士37期・米英駐在・戦後自衛隊陸上幕僚長)が通訳に当たりイギリス軍が無条件降伏を受けいれた。これが真相である。毎日新聞政治部記者で陸軍省担当出逢った岡田益吉はその著書「日本陸軍英傑伝」−将軍暁に死すーには山下中将が後日親し友人に語った真相を紹介している。「新聞にイエスかノウかと詰め寄ったように書かれたのには、参った。2月11日紀元節に敵軍に降伏勧告のビラを配っているし、15日には総攻撃をかけることになっていた。ところが英軍はまだ10万の兵を持っていたし砲弾も我が方の数倍で日本軍がブキテマ高地攻略に砲弾の8割を使ってしまい正直なところ気が気でなかった」という。ところが相手方は停戦を明日まで待ってくれと何とかして時間を延ばそうとしていた。そこで山下将軍は早く結論を得たいので他のことを言わないで「イエスかノウ」だけ聞けばよいといったということである。決して居丈高ではなかった。
降伏交渉成立後山下中将は華々しい入城式もやっていない。また各軍のシンガポール入城を制止,郊外に宿泊させ、このようなときに起こりがちな風紀上の問題を未然に防いでいる。さらに日英戦没者の合同慰霊祭を行っている。山下将軍は立派な武人であった。
初期の新聞報道の虚報がいつの間にか真実となってしまった。新聞の罪は重い。戦後、戦時中の軍部がしたことはすべて悪であったという先入主にとらわれた著作が流布して虚報が真実となっていった。

 戦い終わったのちフイリッピンの第14方面司令官であった山下大将はB級戦犯となりマニラ法廷で裁かれ絞首刑の判決を受け昭和21年2月23日処刑された。享年62歳であった。多磨霊園16区1種8側6号に墓がある。多摩霊域通りと東3号通りの交差点近くである。詣でた日(1月10日)墓は綺麗に清掃されてあった。墓の左側に墓碑銘には「人の世時有り命有リ治乱は時なり成敗は命なり・・」(安岡正篤撰・中村儀雄書)とあった。地下の山下将軍もまた「成敗は命なり」と嘆いておられるだろうか・・・笑っておられるかもしれない。