2015年(平成27年)1月20日号

No.633

銀座一丁目新聞

ホーム
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

安全地帯(453)

湘南 次郎


扇湖山荘


 平成26年11月29日晩秋の鎌倉山「扇湖(せんこ)山荘」見学会が市役所主催で行われ参加させていただいた。鎌倉在住者にサービスで年2回見学させてくれる。山荘は、鎌倉市西部の緑が多い標高50mほどの鎌倉山の分譲地の東の一角にある。面積は13万坪(43ヘクタール)、東京ドーム9個分あまりある広大な庭園で、最高部の南面に、飛騨高山の民家を移築し、大江新太郎、森口三郎の設計により改築したコンクリート造の地下1階、地上1階、2階は民家の木造本館が建っている。窓からは鎌倉の海が一望され、ちょうど扇のように見えるので「扇湖山荘」(せんこさんそう)と命名したのだそうだ。恥ずかしながら40年ほど前に引っ越してきた小生宅よりわずかT`ほどの裏山にあるのにもかかわらず知ることはなかった。山荘入口の道路の一隅に「鎌倉園」という壊れたボンボリが立って残されていたのを覚えている程度であった。見学会は武家屋敷を思わせる旧い門をくぐると鎌倉特有の切り通しを抜け、紅葉した木々に囲まれた広大な庭園が広がる。小さな門をくぐって石段を上がると茶室ではあるが普通の民家ほどある「伏見亭」(伏見宮邸より移築とのこと)、山桜、杉木立、孟宗竹林を過ぎ大きなしだれ桜、春は素晴らしいだろうなと思う。左にくぐり戸、そして本館がある。堂々たる日本建築の豪邸が斜面を利用し建っている。  

 一階は「金の間」、「銀の間」各所に贅(ぜい)を極めた格天井、透かし彫りの欄間や障子、火頭窓、両部屋の特徴を生かし見事である。2階は拝見できなかったが、旧蚕室を大広間とし、有名人の客の接待に使われたといわれている。一階ベランダからの眺望はまさに鎌倉湾、三浦半島を一望に望む絶景である。下には椿林、竹林、桜林、梅林と四季折々の植物が植えられている広々とした庭園になっている。

 そこで、小生も最初の所有者について知ることとなった。建設者は、戦前、戦中、滋養・栄養・強壮・胃腸の健康薬品として有名だった「わかもと」の開発、製造、発売元 の長尾欽弥、長尾よね夫妻であった。「わかもと」はビールのホップの搾りかすより製造した薬品で抜群の宣伝効果により巨万の富を得た。失礼だがもとはただ見たいなもの、クスリ九層倍とはこのことか。昭和5年(1930)より10年を要した7,500坪の世田谷の本宅を始め、鎌倉山に扇湖山荘、近江唐崎に隣松園という豪壮な別荘に数奇屋好みの茶室を設け、政、財界、軍人、文化人各界の著名人を接待し、連日連夜大宴会を催したのであった。お定まりどうり、影で活躍したのは破天荒な妻よねの活躍であった。彼女に面会した白州正子の昭和33年(1958)の「女傑」(小説新潮2月)、62年(1987)「当世畸人伝」(新潮社)に載り、平成3年(1991)にはそれをもとに森光子が帝劇で公演した。資料によれば、よねは夫、欽弥より3才年上、昭和4年(1925)夫欽弥が酵母の錠剤を考案し、13人の女工を使って姉さん被りにたすき掛けでたたみの上に大きな卓袱台のようなものの上での作業の指揮をし、包装が終わると大きな風呂敷に包んで背負い、御徒町周辺の薬問屋へ売り込みにまわった。商機の着眼よく婦人倶楽部に大学の先生の推薦広告を出し、爆発的に販売されるようになり、日支事変、大東亜戦争と軍部とも関係を持ち繁盛したのであった。戦火拡大とともに事業は大阪、朝鮮、天津、上海と拡大し、大いに日本の国威発揚に貢献、戦闘機までも献納している。

 山荘に客を歓待する演出も破天荒で、料理に北大路魯山人の星岡茶寮よりの料理人により、宴会のしめくくりは必ず茶室で裏千家の鈴木宗保がつとめたという。戦争直前の昭和15年(1940)の純利益は、約700万円(当時の大工の手間が2円/日)であったというがこれではカネの使い道に困ったろう。よねは、国宝クラスの書画骨董刀剣の美術品を買いあさり、後に鎌倉山に美術館まで開設した 。 

 「好事(こおず)魔多し」。利あらずして昭和20年(1945)終戦。大陸の全財産は希有に帰し、本社、工場も空襲で焼滅してしまった。しかし、よねはそれにもめげず、それから15年ほどは、蓄財を使い有名人の接待やパトロンに明け暮れしていたようであったが社運は衰退、ついに世田谷の豪邸も手放し、都内各所のアパート、マンションを転々とし、最後に鎌倉の山荘に落ち着いた。巨万の富の収集した美術館の収蔵品は各地の美術館や、コレクターに売られて霧散していった。よねは、昭和42年(1967)2月79才糖尿病で目を患い死去、夫欽弥も再起の夢を持ち続けつつ55年(1980)89才で亡くなった。山荘は大手不動産、銀行、建設会社などを経て平成22年(2010)鎌倉市に寄贈、再び整備され日の目を見ることになった。

 見学約2時間、本館正面玄関前にそびえる波瀾万丈の歴史を見て来た大イチョウの紅葉を愛でながら、栄枯盛衰、諸行無常を感じつつ辞したのであった。


 失礼ですが敬称は略しました。資料は鎌倉市のパンフレット、インターネット鎌倉扇湖山荘関連資料等を参考にしました。写真は筆者撮影です。

 


茶室伏見亭