2012年(平成24年)4月20日号

No.536

銀座一丁目新聞

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追悼録(451)

義烈空挺隊の勇士たちを偲ぶ

 

 航空士官学校に学んだ同期生、今村明君はこんな体験をしている。大東亜戦争の末期の昭和19年12月に編成された特攻隊奥山義烈空挺隊の訓練基地は一時、埼玉県豊岡の航空士官学校の別棟におかれ、約、2、3ヶ月間起居し飛行場滑走路わきの空き地に作られた偽造の実物大のB29に対する攻撃訓練をしていた。今村君は彼らの行動を目の前で見、彼らと接触する機会があったのを印象深い思い出として今なお記憶しているという。

 航空に進んだ1600名の同期生はこの年の3月17日予科を卒業、3月27日に航空士官学校に入校,6月には20日間の隊付き教育。12月24日には分科の決定があり、1108名が操縦科と決定した。今村君は整備であった。操縦の同期生たちは昭和20年4月から満州各地の飛行場で操縦の訓練をするため渡満する。

 今村君の義烈空挺隊についての手記を引用する。「当時約200名と思われたが、すべて伍長,軍曹の下士官であった。われわれは当時兵科も決定し、4式戦闘機の整備員として隊付き前の教育を受けていた。最初隊列に出会った印象は、皆身体は頑強で凛々しく、きびきびした素晴らしい集団に驚いたことを覚えている。たまたま風呂に入り、一緒になった時の印象は起居振舞いが立派で礼儀正しくエチケットを心得ており全国の部隊から選抜された方々だけあってたくましい体格であった。今でも記憶に残ることは、風呂の中で瞑想しながら静かにつかっている姿や風呂上がりに交わす同士との話の中で死を数日後に控えた勇士にじかに接しなんともいえぬ神々しい姿、態度に人生を達観し解脱した姿はああいうものであるのかと思い出されるのである」

 奥山道郎大尉(陸士53期)を中隊長とする義烈空挺隊が米軍占領下の沖縄の北、中飛行場へ特攻をしたのは昭和20年5月24日であった。空挺隊の編成は5個小隊136名。空中輸送を担当し強行着陸に任じる第三独立飛行隊重爆は12機、諏訪部忠一大尉(陸士54期)を隊長として32名が搭乗した。

 当日熊本の健軍飛行場を発進した12機のうち5機が突入、4機が対空砲火で撃ち落とされたが、1機が胴体着陸に成功、機内から飛び出した13人の隊員は米軍機9機を破壊炎上し,29機に損害を与えた。米軍側に多数の死傷者が出た。米軍の攻撃で全員が玉砕、出撃した12機のうち4機は機体不良で引き返した。突入した5機を含めて特攻戦死者は8機88人に上った。米軍側の資料によると、日本兵69名の遺体は米軍によって埋葬されたとある。なお戦死された奥村隊長は2階級特進された。諏訪部大尉は沖縄で6月15日戦死された。諏訪部大尉は今村明君の横須賀中学の5期先輩であった。出撃する前まで観音菩薩を刻み横須賀の長兄栄一さんに「部下多数ありよろしく頼みます」とその名簿を同封している。

 義烈空挺隊は昭和19年11月サイパン基地覆滅の目的で編成された。その実行の機会が失われ、沖縄作戦に投入された。この間7ヶ月、隊長以下136名独りもかけることなく実行の5月24日を迎えた。自他ともに認める日本陸軍の最強部隊であった。今村明君が手記で感嘆するだけの将兵であった。成敗を度外視した義烈空挺隊の壮烈な行動は千載の後まで伝えなくてはなるまい。航空特攻による戦死者は陸軍1334名、海軍2459名計3803名。その他の特攻を含めると合計9564名にのぼる。


(柳 路夫)