2010年(平成22年)9月1日号

No.478

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追悼録(392)

まことしやかにさりげなく


 映画監督。松林宗恵さんが亡くなって1年がたつ(2009年8月15日死去・享年89歳)。松林監督作品の映画は「人間魚雷回天」しか見ていない。主演は岡田英次であったか。大住広人さんの「まことしやかにさりげなく」(仏教伝道協会刊・2010年8月15日発行)を読んで松林さんが僧侶で海軍予備学生出身(第3期)の海軍中尉であるのを知った。大住さんは「松林宗恵90年にわたる生涯で、軍人だったのは2年5ヵ月に満たないが、心の深奥に刷り込まれた印影は全生涯に及ぶ」と記す。松林さんより4つ年下の私も軍人生活(軍の学校)をまったく同じ期間過ごした体験を持つ。その2年5ヵ月がその後の人生を決めたと言ってよい。第1講に「鎮魂」が語られる。「死者のために生きる人生、死んだ人を背中に背負うて生きる人生、人間の生き方の中にこれほど大切な人生はないか、と私は思うのです」。松林さんは多くの同期生を戦場で失なう。先輩の海軍士官も散華している。日本の周辺の海には今なお四十万近い海軍の将兵が潜水艦と共に巡洋艦、駆逐艦、戦艦大和,零戦と共に海底深く眠っている。士官候補生であった私でさへ12名の同期生が靖国神社に祀られている。「戦争を知らない世代の人たちは、国家観もなければ愛国心もない。連帯感も薄く、報恩感謝の気持ちはみじんもない。死者の重みなどと言うものは考えてもみない」。残念なことに菅直人首相がその典型的例である。

 「人間魚雷回天」から26年後の昭和56年8月に「連合艦隊」を作る。戦後36年に『なぜ連合艦隊か』。この映画ガの最後のシーンに2歳児が砂浜に無心に遊ぶ姿が出てくる。森繁久弥演じる2人の息子を戦死させた老学究の孫という設定である。誰が無心に遊ぶ子供を戦場へ送ろうと思うのか。映画「連合艦隊」はこの一場面ために作られ、息を吹き込まれたという。松林は「平和を語るために戦争映画を作ることのできる男」であった。同時にそれは「傲慢不遜になることはそのまま戦争につながる」という危惧を抱く松林の気持ちと一体となるものであろう。

 本の題名は森繁久弥の演技とかかわる。松林監督が森繁に出会うのは昭和33年の「社長三代記」の時である。その演技のまことしやかにさりげなさに、松林監督は舌を巻く。それ以後、役者に演技の注文をつける時にはこの言葉が監督の口癖になった。

「善人なほもって往生をとぐ いわんや悪人をや」と言う言葉が出てくる。戦後、毎日新聞社会部で僧籍を持つ社会部長が部の若返りを図るため30数人の記者を配転した際に、この言葉を使って納得させたという話を思い出した。読むべきは「歎異抄」である。

 大正時代に日本に来られたアインシュタイン博士が「仏とは」と近角常観に訪ねたところ「姥捨山」を語ったというのは素晴らしい。「もっとも厳しい状況にあってもわが身一切を省みることなく息子の安心無事を願い導く姿に大慈を感じ、その大慈に浴して慙愧こみ上げる衆生を見る」。アインシュタインは涙をたたえて聞いていたという。

 大阪の利井興隆さんの俳句「合点じゃ いつなりと吹け 秋の風」が紹介されていた。良い句である。だが「合点じゃ」と言う心境までに立ち至ってない。もう少し時間がかりそうである。それまでひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えておくとしよう。

(柳 路夫)