2010年(平成22年)9月1日号

No.478

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花ある風景(393)

並木 徹

 国鉄スワローズ物語

 真夏の球宴・都市対抗野球大会に今年もJRの4チームが参加、溌剌としたプレーを見せている。JR九州(北九州市)、JR四国(高松市)、JR東日本(東京都)JR北海道(札幌市)である。東京日日新聞(毎日新聞の前身)が昭和2年、都市対抗野球を始めた時も参加チーム12組のうち5つが鉄道チームであった。仙鉄、名鉄、門鉄,京城竜山鉄道、九州鉄道(私鉄・現西鉄)で鉄道チームを無視して都市対抗野球はあり得なかった。この第1回大会に優勝した大連満州クラブにしても満鉄を中心としたチームであった。鉄道野球がプロアマを問わずに日本の野球の基礎を作り発展させてきた。堤哲さんの「国鉄スワローズ1950−1964」(交通新聞社)には球団誕生・金田正一投手の活躍だけでなく日本の野球を支えてきた国鉄の先人達の事績も語られおり興味が尽きない。

 国鉄マン平岡Xは15歳の時アメリカに留学、鉄道技術を学んで明治9年、帰国、アメリカから持ち帰ったボールやバットを使って野球を教えた。日本で始めてカーブを投げた男と言われている。日本で始めての野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を作った。野球道具も米国の大リーグの元投手の知り合いから送ってもらっている。日本に野球が伝えられたのは明治5年、米人教師ホーレス・ウィルソンによる。慶應義塾の野球部も平岡の教え子によって創設された。昭和34年出来た「野球殿堂」に正力松太郎と共に殿堂入り第1号に平岡が選ばれたのは当然であろう。

 「夢は列車の中で開く」。昭和24年11月7日、前日開かれた東西退校野球最終第3戦の審判を務めた西垣徳雄は帰りの列車の中で国鉄総裁加賀山之雄とあった。西垣は第一神港商業のエース、昭和4年選抜高校野球で優勝し法政大学に進学。卒業後東京鉄道局に入社する。その時の人事係長が加賀山総裁であった。そこで国鉄球団創設を提案した。野球好きの加賀山総裁が具体化をまかしたのが今泉秀夫である。今泉は昭和11年、仙台鉄道局野球部長(人事係長)、昭和12年、新潟鉄道局野球部長(貨物課長)として都市対抗野球に出場している。ここで今泉は「野球の効果」を体験する。昭和36年に新設された新潟鉄道局は東京、名古屋、仙台の3局からの寄せ集めで苦労していたところ都市対抗野球の予選、本大会出場の応援を通して局員の心は一つになった。スポーツの良さはここにある。アパルトヘイトで悩む南アフリカのマンデラ大統領がラグビーのワールドカップ・アフリカ大会に力をを入れ、見事初参加で初優勝する偉業をなしとげ国内の融和を果たしたのは有名な話である。今泉は「国鉄プロ野球団設置要綱」を作るなど見事その責任を果たす。
 享栄商業の金田正一投手が国鉄球団にはいるのは西垣徳雄監督の人柄に金田投手の父親が惚れ込んだからである。中日、南海、松竹からもスカウトの手が伸び始めていた。契約金50万円、月給2万5000円であった。当時大学卒の初任給は6000円、国鉄の初乗りが5円の時代である。金田投手が新人長島茂雄を連続4三振させる伝説の対決は昭和33年の4月5日、後楽園球場であった。連続10年20勝の記録を閉てるなど金田投手は記録男であった。金田正一の国鉄球団への感想。「ホンマのいい球団だったのよ。弱かったけどな。国鉄総裁を始め本社の幹部も、現場の職員も、労働組合も、国鉄一家を挙げて応援してくれた。温かい球団であった。同じ貧乏球団だった広島カープは今でも存続しておる。スワローズだって身売りしなくてもよかったんや」金田の背番号は「34」。移籍した巨人軍での永久欠番である。国鉄スワローズでないのが何故か悲しい。

 JR東日本会長であった松田昌士(現名誉会長)が日本野球連盟の会長に就任したのが2005年2月、アマチュア野球のドンと言われた山本英一郎のあとを継いだ。この際、山本は「戦前国鉄野球は強かった。これから見てみなさい。JRの時代が到来します」と言ったという。その松田は「フェアプレーの精神を重んじる文化は、地域や企業にも通じるものがあると確信している」と連盟報に綴る。野球文化はこれからも語り継がれてゆくことであろう。一高で正岡子規の3年後輩の中馬庚ガベースボールを「野球」と名訳をしたのが明治27年秋。野球好きの正岡子規は「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」とよんだという。それから116年、この本を手にして「野球を育み伝え花咲かせ語る歴史は栄光に満つ」の賛歌を添えたい。