2009年(平成21年)3月1日号

No.424

銀座一丁目新聞

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追悼録(340)

死生命あり、富貴天にありというが・・・

 死ぬも生きるも運命だと思う。80歳を過ぎると友人や後輩がこの世を去ってゆく。つくづく世の無情を感ずる。毎日新聞社会部で一緒に仕事をした、平野正夫君(昭和60年・死去・享年60歳)の遺稿「らっきょうの花」(西田書店)を何気なく手にして読んでいたら、こんな一節があった。
 「親戚の葬式から帰った母親が言う『私もああいう死に方をしたいわね』。なくなったのは90歳のおばあさん。夕方いつものように部屋を掃いて大好物のスキヤキを食べて床に入ってテレビを見ていたらしい。その日の番組『桜の園』をとてもたのしみにしていたのだそうだ。寐る前に家人が覗いてみると、体を横に倒すようにして。安らかな死顔だった。一時は嫁姑のおきまりのイザコザもなくはなかったようだが、歌を作り書に親しむという人柄だった。『ともかく最後が最高だねぇ』母親の述懐にはしみじみとした実感があった」(「老いと死」1983年4月20日)。
 弘前高校、東大文学部を出た平野君は洒脱な文章を書く人であった。事件取材は得意ではなかったと記憶している。温厚な人で、文句を言うときにも口をとがらせるが笑顔で「それはちょっとおかしいですよ」と言った。昭和61年1月奥さんの叔子さんからいただいたハガキには『古里の岩手県花巻市で眠りにつきました』とあった。この頃私は西部本社にいたので彼の葬儀には行かず、失礼をした。
 ほぼ同年配の社会部の友人土屋省三さんも昨年1月なくなった(享年82歳)。面白い記者であった。いつも外国へ探検に行く機会を狙っていた。東南アジアへ取材に出かけても予定日には帰社しない。理屈をつけて伸ばす。『搭乗機ジャングルに不時着。帰社できず』と誰でもがすぐ分かるような電報を平気で打つ。私もメキシコオリンピックの時「すぐ帰国せよ」の社命があった際、『帰国の便なし。本社でチャーター機を用意すればすぐ帰国できる』と電報を打って、ニューヨーク、ハワイを経て帰国したことがある。土屋記者の土産話は抜群に面白かった。とりわけ猥談が巧みであった。昔はこんな記者もいた。今、記者達はサラリーマン・ウーマン化した。羽目をはずす記者もいなくなった。会社の懐が小さくなったと言うことであろうか。「富貴は天にあり」という。『財産の地位も天命のまま』だと言うなら少し逆らって遊ぶのも面白いではないか・・・・
 

(柳 路夫)