2009年(平成21年)3月1日号

No.424

銀座一丁目新聞

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安全地帯(241)

信濃 太郎

「憲政擁護国民大会」開かれる(大正精神史・政治編B)

 船出したものの桂首相のやり方は「非立憲的な行為だ」と世論が爆発した。大正元年12月19日には東京木挽町の歌舞伎座で東京日日新聞元社長、衆院議員副議長関直彦を発起人代表に「憲政擁護国民大会」が旗揚げされた。政治家、実業家、新聞、雑誌記者を始め学生、車夫、露天商など各層3000余人が集まった。そのなかには板垣退助、杉田定一、犬養毅、尾崎行雄らの顔もあった。板垣退助、時に74才。8年後に死ぬのだが、自由民権への熱情いまだ衰えずというところか。桂内閣組閣の後の12月24日の東京日日新聞の社説は桂内閣出現のカラクリを余すところなく暴露して民衆に訴えた。
 「毎日新聞百年史」には、本山彦一社長の新しい内閣の逓信大臣になった後藤信平に送った面白い書簡が紹介されている。「(今回の政変)有識者有志者はもちろん男女学生より素町人土百姓馬丁車夫に至るまで湯屋髪結床にて噂の種になり元老会議の不始末(後継首相の選考難をさす)に対しては裏店井戸端会議にのぼり、炊婦こまつかひまでがひそかに罵り合い侯用の次第にて、近来珍しき政治思想の変化普及を実現いたし、万一新聞紙が教唆の態度に出たりしならば、焼打事件再来ありたらんも知れずと相考侯位に御座候」。新聞の力は大きい。当時炊事のおばさんやお手伝いさんまでが政談に加わっていたとは驚きである。今、テレビの街頭でのインタービューで老若男女が政治について感想を求められるとそれなりの気の利いた答えをしているが、大正の初めより国民にはすでにその素地があったということである。
 大正2年1月17日には全国の新聞記者代表400名が築地の「精養軒」で連合大会を開いて気勢をあげた。さらに政友会、国民党、無所属の議員たちと各新聞記者たちも加わって「憲政擁護連連合会」をつくられた。連日街頭で「憲政擁護」「閥族打破」を叫び、新聞は筆を揃えて「軍閥打倒」「憲政擁護」のキャンペーンをはった。
 2月5日議会が再開され政友、国民両党は「内閣弾劾決議案」を提出した。趣旨説明に立ったのは尾崎行雄であった。桂首相弾劾演説は言々、句々殺気を帯び、桂首相の肺腑をえぐった。「彼らのなすところを見るに、常に玉座を城壁都市、詔勅を弾丸として政敵を狙撃せんとするものである」と喝破した。世論の猛撃もあって桂内閣は5日間の停会を行って善後策を練ることにした。外相加藤高明の献策を入れて西園寺政友会総裁に「不信任案を撤回するか、もしくは公が自ら重ねて内閣を組織して時局を収拾されたい」と申し入れたが西園寺はこれを拒否した。桂は万策尽きた。加藤外相がイギリスの話をした。「ジョージ五世が即位したころ、保守党と自由党が盛んに政争をやっていた。そこでジョージ五世から今は即位の初めだから政争を1年だけ見合わせてもらいたいと言い出されて、両政党は直ちに政争をやめた。日本においてもいま陛下御登極後1年もたたない。この際政争をやめ、予算も成立させたらよかろうというお言葉であればイギリスと同じようなことになりはしないか」という話であった(若槻礼次郎著「明治・大正・昭和政界秘史」・講談社学術文庫)。同感した桂首相はまた陛下に奏請に及んだ。西園寺が宮中に召され「諒闇中のことでもあり、今日の場合特に意を用いて匡輔の人を尽くせ」とのお言葉を賜った。そこで西園寺は桂に会って「お言葉をいただいたので不信任案を撤回して時局収拾に当たる」と回答した。直ちに政友会幹部と国民党の犬養毅らと善後策を協議したがその席上、尾崎行雄はあくまで反対し、犬養毅は「政友会は西園寺公と離れて憲政擁護のために戦うべきである」と主張した。大勢は「お言葉に従い」不信任決議案は撤回された。
 桂首相は首相の職にありながら国民党を主軸として政友会に所属していない諸派に呼びかけて「立憲同志会」を結成したのが火に油をさした形になった。桂首相は大正2年1月20日新党樹立を発表した。国民党の大石正巳、河野広中、島田三郎、武富時敏、箕浦勝人の五領袖が脱党して加わった。このとき、昭和になって、軍部と戦う斎藤隆夫も国民党から桂新党に参加している。もともと桂首相は自分が政党を組織する場合のことを考えてドイツに外遊の際には外国の政党事情をよく調べていた。その思いもかなわず宮中に入り、実際政治から遠ざかりあきらめていたところであった。政党結成は念願であった。閣僚では大蔵大臣の若槻礼次郎が創立メンバーに入った。あと一人桂首相から声をかけられた農商務大臣仲小路廉は「今閣下が政党を作るのはよくありません。むしろ中止されたい」と反対して入党しなかった。政友会、国民党を切り崩して作った新党に参加したものは93名にすぎなかった。政府は3度停会して、ますます勢いを増す「憲政擁護運動」を挫こうとした。だが、憲政擁護の時の流れには勝てなかった。