2008年(平成20年)7月1日号

No.400

銀座一丁目新聞

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追悼録(316)

才能豊かな大野君逝く

  同期生の弁護士、大野重信君が死去した(6月21日・享年82歳)。多彩な才能の持ち主であった。好奇心強く、向学心旺盛な大野君は学部が異なる二つの大学を同時に通学する破天荒なことをやり遂げた。しかも弁護士のほか税理士、公認会計士、不動産鑑定士の資格をつぎつぎにとり、その業務を見事にこなし、人々から深く尊敬された。通夜の焼香に参列した人の多数には驚いた。弁護士、会計士、税理士の業界の仲間の列が200人も済んだあと、女性の列が100人も続く。その大多数は大野君にお世話になったお客であった。社会と自分の正義観とのジレンマで苦悩したあと、彼が人情法律家として尽くした、難しい事件でのお客様には相続をはじめ女性の依頼者が多かったのであろう。
 陸軍予科士官学校では中隊も同じ、本科ではともに砲兵、敗戦後大学でも一緒であった野地二見君が告別式(6月27日・東京・桐谷斎場)で弔辞を読んだ。その中で「巨漢で頑張り屋であった君は、そのころ、国家試験ではだれにも負けないぞとの覚悟で、法学部のほかに商学部、経済学部そして商科の大学院と11年間もの間、次々と国家試験を受けながら猛勉強に明け暮れました。戦後のあの寒い教室の机の上で毛布を掛けて頑張っていた姿を私は見ています」と述べた。私には驚きであった。弁護士でさえ「六法全書」を頭の中に入れなくてはいけないのだから大変だと思うのに他の資格試験にも挑戦し、ことごとく突破する。立派というほかない。この頑張りはどこから来るのか調べてみると予科時代の区隊長の教育にあるようだ。ある時、区隊長が校舎の壁を登れと命令した。直角な壁を登れるはずがない。「できません」と答えると「やっても見ないで何ができませんか、やってみろ」と怒鳴る。仕方なく壁をよじのぼろうとするが駄目である。区隊長が言った。「可能か、不可能かはあらゆる限りをつくした結果である。何もやりもせず不可能と考えるな」大野君は「雨だれが岩をも穿つの意味が何となくわかった」と悟る。鉄は熱いうちに打つものである。
 彼も仕事柄からゴルフとマージャンを人並みに覚える。徹夜マージャンもした。昭和47年ごろという。私はゴルフを昭和43年ごろからであるが、マージャン、競馬、花札など早くも昭和25年ごろ警視庁記者クラブで先輩からすべて教わった。遊び事にはすべて人の性格が出る。人間観察の上からは欠かせない。彼は50歳を過ぎてから人間は理性より感情に左右されやすいことを知る。それからは依頼者から相談を受けても聞いているうちに何となく結論が出てくるようになったという。
 好漢、今やなし。彼を送るふさわしい歌はやはり「砲兵の歌」であろうか。
 襟には栄ゆる山吹色に
 軍の骨幹、誇りも高き
 我らは砲兵、皇国の護り

(柳 路夫)

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