2007年(平成19年)1月10号

No.347

銀座一丁目新聞

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追悼録(263)

かささぎの渡せる橋に置く霜の

  小学生のころ、正月、家族で「小倉百人一首」のカルタ取りをやった。だから今でも百人一首はおぼろげに覚えている。毎日新聞の友人の一人塚本哲也さんから「かささぎの 渡せる橋に置く霜の 白きをみれば 夜ぞ更けにける」(中納言家持)の歌と共に「昭和の始めの子供の頃 百人一首で初めてこの歌を知った時 凛とした冬の厳しさと緊張感に 身の引き締まるおもいがしました」と賀状を頂いた。「白きをみれば 夜ぞふけにける」か。「ハーイ」といって手を伸ばした昔が思い出される。この歌は「萬葉集」に収められていると思い調べたらなかった。俳句を7年前から始めた。萬葉集をしばしば手にするようになった。萬葉集には家持の歌は長歌42首、旋頭歌1首、短歌42首がある。巻7から巻20までは家持の歌日誌である。編集者の一人とまで言われている。家持は8世紀後半の貴族政治家で、陸奥按察使、鎮守将軍、中納言、持節征東将軍を歴任している。父は大納言旅人、弟は書持、叔母は坂上郎女で何れも著名な歌人である。16歳の時「振り放(さ)けて若月(みかづき)見れば一目見し人の眉引おもはゆるかも」(994)と、ませた歌を詠んでいる。29歳の天平18年(746)6月越中国守になる。天平勝宝3年(751)までの5年間、いまの高岡市伏木の勝興寺付近の国庁に赴任、その任に当たった。近くの伏勢の水海で度々遊覧したらしい。「藤波の 影なす海の 底清み 沈著(しづ)く石をも 珠とそわがみる」(4199)の歌を残す。越中国守時代に優れた歌を謳っている。「春の苑くれなゐにほふ桃の花した照る道にい出で立つをとめ」(4139)「わが園の李の花か庭に落(ふ)りしはだれのいまだ残りたるかも」(4140)。「海行かば」の歌詞も越中国守時代に作った長歌の中にある。天平感宝元年(749)5月12日、越中の舘に、陸奥より金を出せる詔書を賀(ほとほ)ぐ歌に「海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ 顧みは せじと言立て・・・」(4094)とある。聖武天皇の世である。家持は聖武天皇を敬慕してやまなかった。家持は延暦4年(785)8月69歳で世を去る。萬葉集は巻20の4516の家持の歌で終わる。「新しき年の始めの初春の今日ふる雪のいや重(し)け吉事(よごと)」

(柳 路夫)

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