1998年(平成10年)7月1日(旬刊)

No.44

銀座一丁目新聞

 

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小さな個人美術館の旅(40)

白馬美術館

星 瑠璃子(エッセイスト)

 前日、碌山美術館を出たのは、夕日が北アルプスの山々を茜色に染める美しい夕方だった。「オリンピック道路もできたことだし」と楽観して、水色の空に淡いピンクが広がってゆく様をうっとり眺めながら走っていたのが失敗だったらしい。白馬に着いたのは、あたりがとっぷりと暗い闇に沈み始めた頃。なまじ昔の道を知っていたのがいけなかった。道路のあまりの整備ぶりにすっかりまごついて行きつ戻りつ。あやうく迷子になりそうになりながら、ホテルに辿りついた。

 赤々と灯をともしたきらびやかなダイニング・ルームには私のほか一人の客もいない。深い夜のしじまに耳を傾けるようにして、ワインを飲みフランス料理を食べた。すぐ裏手に滑降コースとなったゲレンデがあって、オリンピック当時はたいそうな賑わいだった。

 「夜といわず昼といわず、世界各地からお客さまが着かれて。あんなことは一生のうちもう二度とないでしょう」

 黒い服のマネージャーが、遠くを見る目つきで言う。耳を澄ませば、夜中まで開かれていたというパーティのさんざめきが聞こえるようだ。つわものどもが夢のあと、である。翌朝は、降るような蝉しぐれのなかで朝食をすませた。サマーセーター一枚では肌寒い六月の初めというのに、もうひぐらしが鳴いている。外へ出ると、白馬岳が思わず息をのむような大きさで陽光に岩肌をきらめかせていた。

 車で十分ほど行ったところ、白樺の林の奥にメルヘンの館のような姿でひっそりと立っているのが、幻想的な作風で知られるマルク・シャガールの版画を集めた白馬美術館である。むかし来た時は、しっくいを思わせる白い壁に太い木の梁や柱をむきだしに使った本館展示室だけだったのが、森の中を渡り廊下でつながれて、瀟洒な二つの銅版画展示室ができている。

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白馬美術館

 石塚要館長がシャガールを集め始めたのはほんの偶然だった。ある時、画商が置いていった一枚の版画にとりつかれてしまったのだ。それまで買い集めた作品を一つずつ手放しては、シャガールにかえていった。エッチングやリトグラフなど版画にしぼって収集したのは、一点何千万円もする油絵にはとても手がでなかったから。それでも時には金策に苦労しながら一点、また一点とコレクションを充実させていった。現在所蔵するのは、二千三百点といわれるシャガールの版画のうち五百点ほど。その中から百五十点くらいを、年に数点の入替えをしながら常設展示している。

 美術館建設を決心したのは1985年、新聞でシャガールの死亡記事を読んだ時。ロシアのヴィテブスク(ポーランド国境に面する現在の白ロシア共和国の町)の鰊工場で働く貧しい労働者の子に生まれ、いつもお腹を空かせてパンとか腸詰めの夢を見ながら絵を描いていたシャガール。「び、び、美術学校に行きたいんです」と吃りながら父親に宣言してパリに出て、けれども生涯変わらず悲しくて楽しい故郷の人や自然を描きつづけたシャガール。ロシア革命や二つの世界大戦をくぐりぬけ、リビエラの自宅で九十七歳の生涯を閉じるまで、どんな主義主張にもくみすることなく、こどものような驚きに満ちた目とナイーブな心を失うことのなかったこの特異なユダヤ人画家のことは、その人も作品も、知れば知るほど自分だけで楽しんでいるのは惜しい、と思い立ったのである。翌86年、開館にこぎつけた。

 収集は道楽でも、美術館の運営は真剣勝負だ。なんとか入館料でまかなえるものにしたい。専門家でもない者が始めるのだから、むしろそれを逆手にとって、素人らしい魅力を持つ美術館にしたいと石塚さんは知恵をしぼった。

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白馬美術館 石塚要館長

 まず、自宅で作品を鑑賞するような雰囲気を出そうと、柱を露出させる展示室のつくりを考えた。美術館なら、ふつうこういうことはしない。柱と柱の間にリトグラフをかけると、なにかとても親しい感じがでた。空間を生かして、ところどころにガレの器やアンチークな椅子を置いたのも、同じ考えからだった。

 さらに、マルチ・オートスライドによる二十分の作品を作り、上映のための部屋を完成させた。作品だけでなく人間シャガールを知ってもらいたいと考えたのである。当時としては画期的なアイディアである。もうひとつ。新しく作った銅版画館の展示室を音楽ホールにもなるようにと音響効果を考えて設計し、いまは定期的に室内楽の演奏会を開いている(ああ、こんなところでモーツアルトが聴けたら!)。

 作品を鑑賞するだけでなく、その作品とともに生きている美術館。それが石塚さんの理想だ。先日はここで結婚式を挙げたカップルがいたと聞いた時、それはそのままシャガールの絵のような光景が浮かんだ。木々のささやきの中に漂っている花嫁の白いヴェール。緑色の顔をしたバイオリン弾き。鮮やかな赤や黄の、大きな花束――。シャガールは白馬の森によく似合う。

住 所: 長野県北安曇郡白馬村2965みそら野別荘地内  TEL 0261‐72‐6084
交 通: JR大糸線白馬駅からタクシー5分 又は、長野自動車道豊科インター下車1時間30分
休館日: 月末の水曜日

星瑠璃子(ほし・るりこ)

東京生まれ。日本女子大学文学部国文学科卒業後,河出書房を経て,学習研究社入社。文芸誌「フェミナ」編集長など文学、美術分野で活躍。93年独立してワークショップR&Rを主宰し執筆活動を始める。著書に『桜楓の百人』など。

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