2006年(平成18年)3月10日号

No.317

銀座一丁目新聞

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追悼録(232)

「先見の明のあった立川熊之助さん」

  気まぐれに図書館から借りてきた竹内一郎著「手塚治虫=ストーリーマンガの起源」(講談社)を読んでいたら「立川文庫」の話が出てきた。もちろん子供の時夢中になった「猿飛佐助」など立川文庫だが、立川文庫の創始者、立川熊次郎の三男、熊之助さんを思い出した。昭和38年8月1日、毎日新聞東京本社社会部の筆頭デスクであった立川熊之助さんが大阪本社の社会部部長になった。立川さんはもともと大阪社会部で事件記者として鳴らすした人である。大阪に帰るにあたって東京から牧内節男と白木東洋の二人を連れて行く。牧内は警視庁キャップから遊軍長になって5ヵ月ぐらいたっていた。大阪では社会部デスクをやることになった。白木は警察には強い記者であった。白木はともかく、牧内は頑固者で協調性がなく扱いにくい人物という評判であった。立川新部長があえて牧内を選んだ理由の一つは遊軍長になってから牧内が前夜どんなに遅く帰宅しても翌朝10時には必ず出社したからであった。もう一つは長期連載企画「官僚にっぽん」で菊池寛賞を受賞するなど仕事の出来る男と感じたからであった。牧内にとって大阪転勤はその後の記者人生の転換点になった。
 大阪に戻った立川部長が手がけたのは警察回りの「街頭班」を廃止して「市民班」の創設であった。従来社会部のアンテナから漏れていたものを拾い上げようというのが狙いであった。ここから「ギャンブル日本」「ママの血液型」の連載企画が生まれた。4年間の立川体制が終わったあと元の「街頭班」が復活するが、この「市民班」の取材体制は時代が早く流動する現代こそ必要に思える。父熊次郎が最大のヒット作「猿飛佐助」を生み出したのは「西遊記」の孫悟空をさらに自由自在に動かすことをイメージしたからといわれている。息子の熊之助は地味ながら「孫悟空」のように自由に大阪の時代の流れを早く的確に飛び回って取材しようとしたのであろう。結果的には40年早かったようである。先見の明があったといえよう。今新聞社の取材に必要なのはアンテナを高く掲げた「市民班」的機能である。単身赴任であった牧内は借金も出来たが、おおらかな人柄の立川社会部長のもとで自由にデスク稼業を楽しませてもらった。
 立川社会部長時代筆頭デスクを務めた大久保文男さんは「東京社会部デスク時代言いたい放題東京の悪口いって江戸っ子を口惜しがらせながら、大阪に帰ってくると、今度は東京の良いところを語った。(中略) 根は純情なのだ」と語る(大阪社会部編「記者たちの森」)。立川熊之助さんは昭和64年5月、68歳でこの世を去った。

(柳 路夫)

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