2006年(平成18年)3月10日号

No.317

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安全地帯(137)

信濃 太郎

 ロシアの歴史家は何故ウソをつくのか

 ソ連・ロシア特務機関の活動を専門とする歴史家ドミトリー・プロホロフ氏が張作霖爆殺事件の真相は「ソ連特務機関が手を下し、関東軍の仕業に見せかけた」と産経新聞の特派員に語ったと報じられた(2月28日)。産経新聞による同氏の話では日本の支援で満州を支配した張作霖が反ソ的な姿勢を示し、ソ連が支援した国民党軍の軍事作戦があいつで失敗したのに苛立ち「張作霖の暗殺」を企てたが第一回目は失敗した。その3年後の昭和3年張作霖が反共、反ソの満州共和国創設を日本と協議しはじめたので再び暗殺計画が持ち上がったという。その年の6月4日張作霖を乗せた北京発奉天行き特別列車が奉天郊外にさし掛かった時、爆発が起き張作霖が重傷を負い、死亡した。事件は東京裁判で関東軍元幹部が犯行を認める証言を行い「日本の犯行」となった。プロホロフ氏は「その幹部は戦後抑留され、ソ連国家保安省が準備した内容の証言をさせられた」とある。
 この話にはいくつかの疑問点が浮かぶ。東京裁判で証言を行ったのは田中隆吉少将(陸士26期)でソ連側でなくアメリカ側証人として出廷している。ここで田中証人は「この事件は当時の中央政府の対張作霖政策に不満を持っていた関東軍参謀河本大作(陸士15期)以下十数名の計画に基づいて決行されたものであった」旨証言した(富士信夫著「私の見た東京裁判」上・講談社学術文庫より)。小島襄著「東京裁判」(上)によると、兵務局長時代(昭和15年12月2日から昭和17年9月29日まで)「張作霖爆殺事件に関する報告書」をみたと証言している。この文書は検事側から提出を求められたが紛失したと報告があったと検事が明らかにしている。「日本憲兵正史」は事件の主役を河本大作と断定している。昭和3年のはじめに事件の予行演習として約一ヶ月間隔で東支鉄道の東部線と西部線の鉄橋を爆破した。二件とも日本人や関東軍に嫌疑をかけたものはなかった。この計画でもっと重要なのは張作霖が乗る列車の確認、連絡である。独立守備隊の二名の中尉が奉天の西方60キロにある新民府に領事館の警察官に化けて張り込みを続け「特別列車の北京出発は6月3日と判断される」と急報したことなどが手記として残されている。張作霖が乗っている車両まで確認された。当日使用される爆薬や伝心機材は河本参謀以下数名の兵によって6月2日夜、奉天独立守備隊裏門より現場に運び出され工兵20大隊の工兵中尉の手によって爆薬は埋設された。列車が上を満鉄線が走るクロス地点(皇姑屯)に差し掛かったとき列車は大音響とともに爆破された。時に昭和3年6月4日午前5時23分であった。ソ連の特務機関が日本軍の警戒厳重な山海閑―奉天間の鉄道を偵察し、爆発地点を決定し、大量の爆薬を現地に運ぶことは無理である。やろうとすれば日本軍の協力なしには出来ない。だから、プロホロフ氏の話は信用が置けない。

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