2005年(平成17年)9月20日号

No.300

銀座一丁目新聞

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安全地帯(121)

信濃 太郎

 戦後の新聞界の公職追放令

 「アメリカの鏡・日本」(ヘレン・ミアーズ著・伊藤延司訳)によると、日本政府が報道関係者の公職追放令を出したのは昭和21年1月5日(土曜日)である。それによると発行部数二万部を超える新聞社と出版社の幹部は公職とみなされることになり、これに該当する職にあって1937年7月7日から1941年12月7日までの間、日本の侵略的軍事行動を支持ないし慫慂し、または日本政府の戦争行為を支援したものは、追放の対象とされ、報道、映画、演劇、放送に関する企業に職を得ることを禁じられることになった。陸士関係者は58期以上が任官しており公職追放になっているので、部数二万部の新聞社には入れない。私が毎日新聞に入る時、任官しているかどうかしつこく聞かれた。終戦直後、この年の10月に卒業予定の陸士59期生を卒業(航空は8月末が卒業予定)させるかどうかでもめた際、航空士官学校の校長、徳川好敏中将(陸士16期)が「降伏したドイツの例を見ると、卒業させないほうが日本の再建のためになる」と発言された。おかげで毎日新聞に入社できた。58期以上が新聞社に入ってくるのは追放がとけた昭和27年4月以後である。
 新聞人の公職追放に著者のヘレンさんは批判的であった。「今日の日本政府は侵略戦争への行動は微塵もとることが出来ないのだから『非武装化』と『民主化』の名のもとに、個人の生活手段を剥奪する追放令はアメリカ人は正しいだの、人間愛に満ちているだの、あるいは私たちの人権擁護は本物である、などという言葉を空々しくしてしまうのだ」と手厳しい。毎日新聞百年史を見ると、敗戦に当たり幹部の責任のとり方には濃淡があるが夫々に身を処している。奥村信太郎社長は敗戦直後に辞任、編集の最高幹部は自発的に総退陣した。事態を収拾するためとりあえず会長の高石真五郎が社長に就任した。新重役選任の為には社員の代表と重役代表が協議を重ねた。新重役選定の条件には1、戦争責任を追及されない人2、民衆主義に徹し実践力のある人3、出処進退を明らかにする人4、節を曲げない人5、激動期における新聞制作に堪え得る人6、対外的にも信任を博する人などがつけられた。その年の11月26日臨時株式総会で新役員8人と監査役3人が選任され新体制が確立した。面白いのは敗戦の西ドイツでは従来の新聞は廃刊、占領軍が新聞を新しく発行したのに、日本では大新聞がそのまま残ったことである。これはマッカーサー元帥とともに来日した親日家のUP副社長兼極東総支配人のマイルス・ボーンさんのおかげである。ボーンさんは毎日新聞の東京本社代表・編集総長だった高田元三郎さんと親しい友人で、高田さんから日本の新聞事情を良く聞いていた。そこで元帥に大きな社会的機能を持つ大新聞を潰す愚を説き、むしろ占領政策を進めるために活用すべしと進言したのである。国際報道に著しい活躍した新聞記者に与えられる「ボーン賞」は彼の功績をを称えるために設けられたものである。

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