2005年(平成17年)9月20日号

No.300

銀座一丁目新聞

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自省抄(41)

池上三重子

   8月26日(旧暦7月22日)金曜日 曇りのち晴れ

 7月が逝く、八月よ、と迎えたお盆の月もあと数日。そういえば生家の跡継ぎ、甥の隆昭は両親や祖父母の霊前で何を思い、何を考えたのだろう。隆昭は生後九カ月、母親ハマ代嫂に抱かれ、姉博美や私の姉ツヤノと錦州市の社宅を出て共に駅頭で父親にさよならをした。父親の胸に抱かれた記憶もない零歳児も二人の娘と息子一人をえて、戦後六十年の今日、妻・千鶴さんと息子の三人暮らし。
 長女は市立図書館の司書、その夫は市役所職員。無事平穏の生活は姑女にかわいがられて、まもなく出産の予定ときく。
 次女夫妻の一児は干魚(ひぼかし)のような皺くちゃの未熟児だったが、来室しても扉を開けたり閉めたり出入り頻繁の健康児であることを祝福。この幼な子にも、まもなく弟か妹ができるというから、私は一代で終わるけれど末広がりの話はうれしい。
 わが家の跡継ぎは無欲恬淡。九大法学部出ながら自選コネナシ入社の内田洋行定年を待ちかねた風情に少欲知足の畑作り、妻は花作り……村役を押しつけられたかたちで社会還元中、まことに平和の気みちた系図の末広がりだ。そうそう、この間の千鶴さん食介のシシトウのてんぷらは美味しかったなあ。

 重慶は今日も暑かろうか。秋の気配は黄瀛大人の奥津城にも漂っていようか。
 黄瀛大人よ! あなたは重慶の故山に黄泉の人。大詩人は心のうたびとの境涯に至り得て軽々快々明々朗々、無数の傷を負うたにかかわらず、まったく生得の稟質をそこなわずに、おおきな生をつらぬかれた。
 偉いお方であった。澄む秋の空のようなお方であった。
 稀代の人として詩人として慕わしいばかりよ。
  人は去る
  人は消える
  私の心は黄瀛を後追いして切ながる
  かつてこの心情は
  乙羽信子さんへ
  辻奎子さんへ
  母へ
  謐かな魂のさけぶ声
  呻吟も漏れる
  ましてや慟哭よ
  孤影悄然と私はうなじ垂れて偲う
  黄瀛あなたは過ぎられた
  七月三十一日という
  一九九一年五月に重慶を
  訪れた中国研究家佐藤竜一さんに扇風機の
  風とコーラーを冷蔵庫から出して
  あなたの生涯を讃える
  慟哭しつつねぎらう
  あなたは嘲われるだろうか
  歯牙にもかけられないだろうか
 懐かしい大人よ。あなたの心はあなたの詩。
 隆昭は黄瀛の名を知らなかった。どんな人と、訊ねもしなかった。好奇心旺盛の叔母に似ぬ思索の人、でもない。老子流と評するがもっとも適宜(?)か。
 彼の父親、私の兄の戦死は九月七日の公報により知った。ボルネオ島の北ボルネオで戦病死!? 兄の死を肯定し得ないままに六十年、なお生あるような思いを払拭できないでいる。
 大人黄瀛の行年九十八歳。
 兄の行年三十六歳。生あらば九十七歳!? そう、私と十六歳の差のある兄は、大人黄瀛と一つ違いだったのだ。
 黄瀛大人も頭脳優秀。兄も神童と称され、旧師のお言葉によれば、四十年に及ぶ教師生活のなかで兄に勝る教え子なし、と哀惜のご心情そくそく耳にさせて頂いたものだ。
 兄よ!
 兄上よ!
 生還の暁には戦友富安一造とサンダカンで菱と鰻の蒲焼を食べたいと食談義だった由。あたら、あたら、野戦病院とは名ばかりの、ニッパ椰子作りの病院でマラリヤ発症による終命とは。
 戦争は絶対悪。
 人間による絶対理不尽の悪。
 どのように歎こうと喚こうと人間の起こす残虐な戦争は、人間有る限り止むことはなかろう。世界のあちこちで現に猛暑の中、八方塞がりの状況下におかれた人々がいる。下令者は肥え膨れて冷房の屋内で舌先三寸の昼寝朝寝か。
 永劫なる神は沈黙でただただ瞻るのみ。
 私も冷房の恩恵に浴しつつ憤懣の心象をつづりつつ、鬱憤ばらしのさなかのペンよ。
 母上よ!
 兄上が哀れ哀れ!
 詮なしながら兄上いたまし、痛恨の情をささげましょう。甲斐なしと知りつつ自己満足を詫びつつです。今から『釈迦』
をまたひらいて、私なりに描く二千五百年昔の求道者に見えましょう。
 夢見にお待ち申します、ね。



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