2004年(平成16年)8月20日号

No.261

銀座一丁目新聞

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花ある風景(175)

並木 徹

 

運もその人の性格である。

 先輩にはすごい人が少なくない。陸士57期の船舶砲兵の長井一美さんはその一人である。長井さんの話は何度聞いても飽きない。特に終戦時日本海でアメリカの潜水艦を撃沈した話は面白い。この期は最前線の小隊長として奮戦し七百数十名が戦死。航空は特攻要員であった。戦病死、殉職者を含めて328名が戦死うち特攻で戦死したもの183名を数える(陸軍士官学校名簿57期名簿による)。
長 井さんは昭和20年4月、宇品港に停泊中の空知丸の船砲隊長を命じられて乗船した。空知丸は(4100トン)は北海道炭鉱汽船所属で18ノットの速力を持ち、レイテ島第九次多号作戦に参加して唯一帰還した輸送船である。そのレイテで57期生は32名の少尉が戦死している。
 57期58期59期を教えた陸軍予科士官学校長、牧野四郎中将も16師団長としてレイテ島カンギポットの山中で自決された。
 空知丸の船長は帰山太郎といい、人物であった。揚陸完了後、片側のタンクに海水を入れて45度も傾かせ、船橋、船尾でキレに油をかけて燃やし、大火災にあって沈没寸前のように工作して敵機を欺き、夜に元に戻して難を逃れてきた操船、戦術に長けた船長であった。
空知丸船砲隊は隊長以下118名。船首に中迫撃砲一門、船橋に機関砲ニ門、機関銃四丁、打上筒六筒二十センチ対空双眼鏡一ケ、ニメートル測高機一台、船尾に高射砲ニ門、爆雷ニ連十二発を持っていた。それと高性能のレーダーと水中聴音機も備えていた。
 7月18日、北海道の積丹岬の手前で米軍の潜水艦の攻撃を受ける。魚雷は三発とも船尾スレスレに抜けて岸壁に当たって大爆発。対空双眼鏡で探していた指揮班長が潜望鏡を発見した。直ちに千歳の飛行隊にSOSを打つと同時に、船長と相談、潜水艦を攻撃する決心をし、中迫撃砲と機関砲を撃ち、爆雷を 深度40メートルで4発、80メートルで4発打ち込んだ。直ちに退避して入舸の港に逃げる。すぐにニ機の飛行機が飛来、爆弾を投下した。その後、潜水艦を沈めたという報告が入り胸をなでおろした。3000トン級の潜水艦でヘリも積んでいたという。アメリカ側の資料ではこの頃日本海で米潜水艦が一隻行方不明になったとある。57期は終戦直前中尉に進級したが、この功績で長井さんだけが大尉になった。陸軍が徴用した輸送船は602隻で終戦時残存したのは二隻のみでその1隻が長井さんが乗った空知丸であった。長井さんが乗船中も関東軍の現役の歩兵連隊を台湾まで輸送したり、弾薬・物資の輸送をしたりしている。朝鮮の羅津港では機雷にふれる事故も起している。長井さんは「今でも不思議な運命を感じる」と言っている。長井さんは物静かな紳士で人当たりが柔らかである。その中に一本凛とした芯が通っている。戦後、奥さんと始めた輸送の仕事が順調に発展、今は二人の息子さんにその仕事を任せている。「かあちゃん、かあちゃん」と愛していた奥さんを数年前になくしたことが一番心残りであろう。長井さんの運命はもって生まれたその性格が生んだものだと思う。

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